シンガポール基地 研究室 1416時
今、瀬戸口の左の眼窩から眼球が離されていく。
麻酔で痛みも意識も無いが、離れていく感覚だけはわかる気がした。
瀬戸口は手術前に幻獣の目の呪縛を抑えるため、左目にありったけの力を込めておいた。
そのためにもしかしたら左目は2度と再生できないかもしれないが悔いは無い。
再び最愛の人を失うくらいなら何を犠牲にしても護り続けたいのだ。
研究室のベッドで手術を受けながら、瀬戸口は夢を見ていた。
ニャー……ニャー……。
何処からか猫の鳴き声が聞こえる。
気が付くと瀬戸口は何も無い真っ白な空間に立っていた。
目の前に、
「……おっさん!!」
千年来の友であるブータニアスがいた。
彼が消滅してから数年ぶりの再会である。
だがブータニアスは瀬戸口に再会の感動を与える間もなく走り出す。
「おっ、おい!待てよおっさん!!」
瀬戸口は何も言わないブータニアスを追いかける。
しばらく走るとブータニアスは、その先にいた何者かの足元に擦り寄った。
ブータニアスが擦り寄った人物の姿を認め、瀬戸口は足を止めた。
「祇園童子……。」
瀬戸口のかつての名を呼び、ブータニアスを従えてこちらへやってくる。
その人物はかつて愛した人――シオネ=アラダ。
足が不自由なはずなのにしっかりと自分の足で歩き、立ち止まり、瀬戸口より頭1つ分低いところから彼を見つめて微笑んだ。
「シオネ………。」
「童子、ごめんなさい。私のわがままのために貴方を千年も苦しませてしまいました……。」
シオネが申し訳なさそうにうつむく。
瀬戸口はシオネの肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「いいんだ。言いたいことをちゃんと言わなかった俺にも責任がある。
もう、昔のことだ………お互い囚われるのは終わりにしよう。」
「はい……。」
素直に返事をすると、シオネは顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
2人はしばらくそのまま見つめあう。
その光景に満足したのだろうか。
ブータニアスは一声“ニャー”と鳴くと、何処へともなく走り去ってしまった。
後に残されたのは瀬戸口とシオネの2人だけ。
先に沈黙を破ったのはシオネだった。
「お別れ、ですね………。」
「ああ、そうだな………。」
双方とも分かっていた、互いが前に進むための別れだ。
悲しいものでは決して無い。
しかし、妙に寂しいものがあった。
それは千年という月日の長さ故だろう。
でも、これからずっと輝き続けるであろう未来が始まればこの寂しさもすぐに消えてしまうのだろう。
「最後に、1つだけ………。」
シオネは手を伸ばし、瀬戸口の左目にかざした。
目を閉じ、小さく祈りの言葉を唱える。
かざされた手から青い光が溢れた。
祈りの言葉を終えると同時に青い光が消え、シオネは手を戻し目を開けた。
そして千年前と変わらず優しく微笑んだ。
「これで大丈夫。あとはあの子次第。」
「………?何を?」
瀬戸口は不思議そうに左目を手で覆ってみた。
特に何も起こらない。
シオネが瀬戸口の唇に人差し指を当てて、いたずらっ子のように楽しく笑う。
「それはあとのお楽しみです♪………じゃあね、私の童子。大好きよ。」
シオネは背伸びをして瀬戸口の唇に口付けた。
口付けた瞬間、瀬戸口に目を瞑らせるより先に、シオネは淡い光となって消えた。
「……………。」
目を覚ますと、瀬戸口は研究所内の一室で寝かされていた。
大きめの病人用ベッドを部屋の中央に置いただけの、簡単でシンプルな病室である。
左目が見えない、感覚が無い。
手を伸ばし触れてみるとそこは包帯で巻かれ、隠されていた。
「気が付いたか?」
不意に瀬戸口の左側から声がした。
左目が見えないので完全な死角である。
瀬戸口がそちらの方に首を動かすと、そこには声の主、芝村舞がいた。
「お前さんが無事ここにいるんなら聞く必要はないんだろうがな………手術は?」
瀬戸口が尋ねると舞は微笑みうなづいた。
「成功だ。お前の目を未央に移植してからわずか数分で、奴が残していたものは全て破壊された。
見事なものだな、愛の力というのは。」
それを聞いて瀬戸口はにやりと笑う。
「お前さんらしくない、くっさい台詞だねぇ。壬生屋は?」
「別室で眠っている。じきに目を覚ますだろう。命に別状は無い。」
「そうか……よかった。」
瀬戸口の口から安堵のため息が漏れる。
その様子を見届けると、微笑んでいた舞は真剣な面持ちに変わる。
「隊員の家族、軍部の者、その他のこの件を知っている全ての者の記憶を操作した。
“ケアンズ基地は整備不良によるガス爆発のため消滅した”とな……。
私以外で真相を知っているのはお前と厚志、赤松、ののみ、そして未央だけだ。」
「そうか……。」
「操られていたとはいえ、未央は幻獣を産み、部下を死なせてしまった。
未央にとってその記憶は苦痛以外の何者でもないだろう。
それなら目覚める前に忘れさせてしまった方が未央のためになるやもしれん。
………どうする、瀬戸口?」
舞に尋ねられ、瀬戸口は目を閉じて考えた。
記憶を消せば、壬生屋は辛い記憶に囚われず、笑って生きられるだろう。
もしかしたら勝利の女神ではない、かつての愛しい少女として彼の手元に戻ってくるかもしれない。
2人で何も考えずに幸せに暮らせるのだろう。
しかし、すでに瀬戸口の心は決まっていた。
瀬戸口はベッドから身を起こす。
麻酔がまだ少し残っているのか、頭がふらついて仕方ないが我慢して床に足を下ろす。
ベッドから出た瀬戸口は病人用の寝間着姿だった。
「おい、瀬戸口っ………!」
まだ無茶はするな、と舞は言おうとしたが、
「壬生屋のところに行ってくる。」
ときっぱり言われてしまうと止められなかった。
壬生屋の病室は瀬戸口の病室の角を曲がった隣にある。
隣、と言っても広い研究所なので割と距離がある。
瀬戸口を見送った舞に教えられ、壁伝いに歩く。
角を曲がると、壬生屋の病室の前で壁にもたれて立っている赤松の姿があった。
瀬戸口がここに来るのを待っていたようにしか見えない。
「よぉ、なんとか元気みたいだな。」
赤松が瀬戸口に声をかけこちらへやってきた。
「なんとかな………まだフラフラだけど。」
壬生屋の病室のドアまであと少しのところで2人は向き合うと、赤松は決意に満ちた目で語りかけた。
「俺、芝村さんに“ケアンズ基地にいた頃の記憶を消すことができるがどうする?”って聞かれた。
俺は消さないことにしたよ。
誰も本当のことを知らなくても、確かに但馬さん達はあそこで生きてたんだ。
なら、俺は忘れちまうなんてできない。
俺には憶えているっていう仲間としての義務があると思う。」
「そうか………強いな、お前さんは。」
「そうでもないさ。隊長のために戦う力なんて俺にはなかった。
ただ祈ってただけさ。なぁ、瀬戸口………。」
「ん?」
「隊長の記憶………消してやってくれないかな?あんな優しい人がずっと泣くかと思うと、辛すぎる………。」
「……それは、壬生屋次第だよ。」
「そっか………そうだよな。」
そう言うと赤松は微笑んだ。
「これからどうするんだ?」
「しばらくは配属先も決まんないだろうから休暇もらって、但馬さん達の墓に線香の一本でも立てに行ってくる。
隊長がやっと例の最低男とくっつきましたって報告しなきゃならないしな。
あとはまぁ………彼女に会いに。」
「おいおいお前さんも隅に置けないねぇ。って、なんだよ最低男って。」
「何って、本当のことだろ?」
「………そうでした。」
2人は軽口を叩き合う。
楽しそうだ。
それが終わると赤松は真剣な眼差しになる。
「隊長とあんたの邪魔しちゃ悪いから俺はもう発つよ。
芝村さんやののみちゃんとは挨拶したし、あとはあんたに一言言うだけだった。
いいか、2度と隊長を手放すな。絶対に泣かすなよ。
隊長の幸せを、俺達隊員全員で願ってるんだからな。」
赤松は瀬戸口の胸元を軽く小突く。
「ああ、わかってる。もう離しはしない。そっちこそ彼女と仲良くな。」
瀬戸口はその言葉をしかと受け取った。
「当たり前だろ!じゃあな、隊長を頼んだぞ!」
それだけ言うと赤松は後ろを見ずに廊下の向こうへと消えていった。