「やぁ。待ってたよ。」
ののみの泣き声を背にして入ってきた瀬戸口と舞に、ぽややんな笑顔を向ける人物がいた。
ドアを閉めると完全防音の司令室へののみの泣き声が届くことがなくなった。
2003年、速水厚志、18歳。
厚志は司令室のデスクに腰掛けていた。
ぽややんな笑顔は学兵のときから変わりがないが、これでもいちおう元帥をやっている。
「すごい泣き声だねぇ。ののみちゃんも、とうとう反抗期かな?」
「のほほんと言いやがって。俺だっていっぱいいっぱいなんだからなぁ?」
「わかってるって。お疲れ様。さぁ、掛けて。」
速水はデスクの前にある応対用の黒い革べりのソファーを指し示した。
瀬戸口と舞がテーブルを挟んで向かい合う形で座り、速水は舞の隣に移動し、座った。
「で、話ってなんだ?」
速水がソファーに腰を降ろすと、瀬戸口は単刀直入に切り出した。
「焦らないで、順を追って説明するから。ね、舞?」
瀬戸口の焦りをやんわりと受け止め、速水は話の進行を舞に譲り渡した。
ののみは会議室のドアを背に泣き喚いてた。
しかしまもなく、涙腺は落ち着いてきて、泣き声はしゃくりあげる声に変わる。
(わかってるのよ……たかちゃんと舞ちゃんが言いたいことは……でもね…)
成長してもののみのシンパシー能力は健在である。
殴られたショックを感じつつも、それが全てののみに対する気遣いからだということをちゃんとわかっていた。
もしわからないままだったらまだ何時間でも泣き喚いていたことだろう。
だが、わかるからといって己の考えまで相手方の都合通りに切り替わるわけではない。
(……いいもん。聞かせてくれないなら、ののみが勝手に聞くもん。)
ののみはドアの鍵を静かに開け、少しだけ開いて外の様子を見た。
やっぱりドアの前に誰か立っている。
そこには屈強な兵士がドアを塞ぐように立っていた。
ドアを閉め、ののみは作戦を考える。
そんなにじっくり考えず、思い当たったことをやってみることにした。
ののみはドアを開けるとしゃっくり上げながら兵士に呼びかける。
「……うっ…おじちゃん……ののみねぇ、ぐずっ……おトイレいきたい…うぇぇっ……。」
半分本気で半分演技の涙に兵士のおじちゃんは見事に引っかかってくれた。
「ああ、わかった。おじさんが連れて行ってやるからな。」
兵士は若干うろたえながらもののみの手を取り、トイレまで連れて行ってくれる。
司令室から遠ざかりはしたが、いちおう会議室からは出られた。
「じゃあ、おじさんはここで待ってるからな。」
「う…ん……ありがとう…ぐずっ。」
女子トイレの入り口に兵士を立たせ、ののみは女子トイレに入っていく。
女子トイレには何個かの個室と用具入れ、洗面台と鏡があった。
綺麗に掃除されている。
さて、これからどうしよう。
ののみはトイレの中を観察しながら考える。
用具入れを開けるとそこには鉄製のバケツが2つとモップがあった。
………いざとなったら、これで兵士を気絶させるか?
いやいや、それはいくらなんでもののみには難しい。
(でも……念のため)
ののみはモップを抱えると、女子トイレの観察を続けた。
ふと見上げると、一番奥の個室の天井の一部だけがほかの壁と色が違うのが見えた。
近寄って見てみるとそれは金属で格子状になっている。
モップで突いてみると持ち上がった。
これだ!とののみは思った。
鉄製のバケツを持ってきて洋式便器の上に置き、その上に乗ると格子を外してできた天井の穴に身を入れる。
バケツを落としたりして派手な音を立てないように細心の注意を払い、天井裏に侵入した。
通風ダクトになっているらしく、天井裏は細い通路となって遠くへ続いている。
ののみはトイレまで連れてきてもらったときのことを思い出しながら、司令室の方へと這っていった。
(ののみには無理かもしれないけど……子供だけど……あきらめちゃめーなの!!
たかちゃん、ののみはあのころのののみとは違うののみなんだからねっ!)
決意も新たにののみは暗いダクトの中を突き進んだ。
「あ、でも……ののみ映画みたいっ♪」
さっきまでの涙はどこへやら。
まだまだ子供でも、女は強いのだ。
見張りにあのおじちゃんを置いたのは、芝村舞の完全なる失策だった。
「瀬戸口、お前に今オーストラリアで起きていることの真相を話す。」
「どうせ拒否権はないんだろう?」
瀬戸口は睨みつけた。
それを肯定と受け取って舞は小さなノートパソコンのスイッチを入れる。
「……この映像を見てくれ。」
「これは……!」
そこには所々に赤い染みがついた白い浴衣姿で左目から幻獣を産み出している壬生屋が映し出されていた。
宙に浮かび、悲鳴をあげながらも必死に左目を押さえようとする。
産み出された幻獣達は周囲にいた人間達を引き裂き、喰い散らかし、踏み潰していった。
突如画面いっぱいに1体の幻獣がアップで映ったかと思った瞬間、画面は砂嵐に変わった。
「これはケアンズ基地近くの集落で撮影されたものだ。
現在、オーストラリアの各所でこれと全く同じことが行われている。」
舞は淡々と説明する。
「どういうことだよ、おい!!」
瀬戸口はテーブルを叩いて立ち上がり、舞に詰め寄る。
「だから見たとおりだ!………少し落ち着け、頼む。」
「あっ、ああ……悪かった。」
瀬戸口はソファーに腰を戻した。
それを見届けて舞は説明を続ける。
「見ての通り、未央はあの左目で幻獣を産み出し多くの人間を死に至らしめている。
このことは軍の上層部の人間なら皆知っているし、庶民にまで知れ渡るのも時間の問題だろう。
………今朝方、連合本部は未央を幻獣を生み出す存在……幻獣の母と断定し、未央の抹殺を決定した。」
「なんだと!!」
瀬戸口は再びソファから立ち上がった。
今度は舞も厚志も治めようとはしない。
「抹殺なんて……あいつが!?まさかお前らも!!」
「違う!!我らは、私と厚志は反対だ!嫌に決まっているだろう、そんなこと!!!」
舞もソファーから立ち上がり瀬戸口と対峙する。
「私は、私と厚志は未央を助けるためにそなたをここに呼んだのだ!!」
「助けるためだと?はっ、俺に何ができるっていうんだよ!!」
「待った。落ち着きなよ、2人とも。」
速水も立ち上がり、2人の肩に手を置いた。
「2人とも、気持ちはわかるけど熱くなっちゃめーだよ。
それに……あんまり大声で話すとよろしくないことをこれから話すんだから。」
「そうだったな……すまない。」
「悪かった…どうも俺、ダメみたいだなさっきから。」
「しかたないよ。事態が事態だから。」
3人は座らずに立ちながら話を続けることにした。
落ち着きはしても座っていられる心境じゃない。
「どうやらあの左目に原因があるようだ。あの……私が未央のために手配した義眼に。
移植前のチェックでは何の問題もなかったはずなのに……何故。」
「舞?」
「わかっている、大丈夫だ。我らはこれより現地に飛び、未央と直接会って真相を探る。
真相を探り、あの義眼をどうにかできるならどうにかし……駄目なら………駄目、だったら、その時は……」
舞はこれから口に出すことに重みに耐えかね言葉が告げなくなり、瀬戸口から目をそらす。
厚志が舞の代わりに続きの言葉を瀬戸口に言い放つ。
「幻獣の母として殺される前に、僕達の手で壬生屋未央として彼女を殺す。」
「なんだと……?」
あまりにも冷静に、あまりにもきっぱりと言い切った厚志に瀬戸口は呆然とする。
「そのためには君の力が必要だ。――元絢爛舞踏の君の力が。」
「………どこまで知ってる、バンビちゃん。」
「僕も芝村だからね。」
厚志は一呼吸置くと、自分を見下ろす瀬戸口に強い眼差しで言う。
先ほどまでの穏やかな目とは完全に別物だ。
「これは軍としての命令ではない。断ろうが断るまいが君の勝手だ。
だがもし断るのなら、そのときは“芝村の人間”としてではなく“速水厚志”として君を斬る。」
速水は瀬戸口の目を見据えたままでいる。
そのはずなのに首筋が刃を向けられたように熱く、そして寒かった。
「………本当に、俺には拒否権はないんだな。」
「当たり前だろ?僕達は壬生屋さんを助けたいだけだ。
君と壬生屋さんの間に何があったが知ったこっちゃないしどうでもいいよ。」
「元絢爛舞踏、ねぇ……。俺には何もできないよ。あいつを助けるなんてのは………きっと。」
「それでも。それでも、そなたでなければできないこともあるのだ………。」
瀬戸口の目を真っ直ぐに見据えて言った舞を見て、厚志はフッと優しげで穏やかな瞳に戻った。
「明日の朝、かみかぜでオーストラリアへ向かってもらう。準備しておいてね。」
「わかった。」
「オーストラリアへは私も行く。あの義眼を手配した責任が私にはあるからな。」
「じゃ2人とも気をつけてね。瀬戸口、舞を頼むよ。」
「おいおい…言い出しっぺが行かないのか?」
「元帥が離れるのはマズイでしょ?それに君達があっちでやることの隠蔽が大変なんだから。
じゃあ舞、気をつけて。瀬戸口に襲われないようにね。」
「ああ、わかっている。」
「………んな暇あるか。」
「冗談だって!……僕は君達を信じてるよ、がんばって。」
厚志の暖かい笑顔を背に瀬戸口と舞は司令室を後にした。
「頼んだよ………瀬戸口。壬生屋さんを救えるのはいい意味でも悪い意味でも君だけなんだから………。」
自分の他に誰もいなくなった司令室で厚志は1人呟いた。
天井に目を向けるとさっきまであった人の気配が消えている。
厚志だけはののみが天井裏で聞き耳を立てていることに気づいていたが、それを誰にも言わなかった。