熊本市内貸しアパート内、瀬戸口家、2216時。
瀬戸口は明日の朝に備えて準備をしていた。
一口に準備といっても色々ある。
必要な物を軍用鞄に入れることも準備だし、十分な睡眠と栄養を取ることも準備。
気持ちの整理をつけ、任務への迷いを断ち切ることもまた準備だ。
必要な物を鞄に詰め込むといっても、自分の住処に興味がない瀬戸口にとって、
特に入れたいと思うものが手元にあるわけではないので、本当に最低限の、
本当に少ない荷物で済んでしまうため10分も経たずに終わってしまう。
食事もいまいち食欲が湧かないが一応食べた。
なら、後は寝るだけだ。
明日は朝早いから早く寝るに越したことはない。
長年軍人をやってきた瀬戸口だ、当然任務前日の心構えはわかっている。
だが、どうにも目が冴えて寝る気に慣れなかった。
まだ準備できていないことがあるからだ。
「……………壬生屋。」
睡魔を誘うために瀬戸口はベッドに身を投げ出し、明日殺すことになるかもしれない者の名を呼んだ。
その人物――壬生屋は数ヶ月前、確かにこのベッドの上にいたのだ……自分と一緒に。
何が目的でそうしたのかは未だに自分でもわからない。
ただ、あの頃の純粋で無垢なままでなくなった彼女が憎らしくてたまらなかったのを覚えている。
自分を含めた誰かに彼女が汚されることを、何よりも拒絶していたはずなのになんなんだこの矛盾は。
本当は誰よりも愛していたよ。
だからこそ憎らしくてたまらなかった。
お前にその感情をぶつけられるのが苦しくてたまらなかった。
いつかお前を汚してしまいそうで。
その純粋で美しいお前を壊してしまいそうで怖かったよ。
だからお前を突き放した。
だから俺はお前から逃げた。
―それなのになんだ、この痛みは。
「くそっ……!」
瀬戸口は奥歯をかみ締め、拳を握る。
爪が皮膚に食い込んで血が出た。
何だ、何が間違った、どこで間違えた。
彼女を愛したからか?
彼女を拒絶したからか?
あの日彼女を抱いたからか?
なんで自分が彼女を殺さなければならない!
あの時、彼女が自分の腕から抜け出すのを止めていればこんなことにはならなかったのだろうか?
寝ていたフリをしていただけで本当は彼女の体温が離れていくことに気づいていたんだ。
ただ、どうしてもその体を捕まえることができなかった。
追いかけることもできなかった。
ただ、冷え切った両手を抱きしめることしかできなかった。
「ののみ?」
舞はののみの部屋のドアを開け、ベッドを見て声を掛けた。
掛け布団が人ひとり分の山を作り、端から茶色の髪が見える。
瀬戸口とののみの3人で帰った帰り道。
ののみは終始無言だった。
瀬戸口も同様だ。
途中、自宅に帰る瀬戸口と別れてからもずっと無言のままだった。
ずっとまるで兄妹のように、ずっと親子のように仲の良かった瀬戸口に今日初めて頬を叩かれた。
そのことがよほどショックだったのだろう。
舞が久しぶりに作った食事を黙々と食べ終えると、さっさと自室に籠もってしまった。
そっとしておいてやりたいのはやまやまだが、明日自分はとても危険な任務に向かう。
何も言わずに出かけるのは気が引けるのだ。
舞は寝ているかもしれないののみの肩をゆすったりせず、部屋の入り口に立ったまま言う。
「明日、私と瀬戸口は未央の救出に向かう。多少危険があるとは思うが必ず生きて帰る……未央も一緒に。
だからお前は、安心して留守を任されてくれ。では、頼んだぞ。」
舞はそれだけ言うとドアを閉め、台所へ向かった。
テーブルに先ほど言ったことと似た内容の置き手紙を置き自室へ入る。
ベッドへ向けて言った言葉、テーブルに残したメッセージ。
面と向かって言わずとも、きっと相手はその心を受け入れてくれるという確信があった。
……だが、それは受け入れる本人が気づく範囲にいなければ意味が無い。
ののみのベッドの上で山を作っていたのは、大きな猫さんのぬいぐるみだった。
端から見えた髪の毛はただの毛糸だった。
え?ののみはどこに?
さぁ、どこだろう。
瀬戸口は気がつくと何もない白い空間にいた。
ぼんやり前を見ているとそこに人影が浮かんだ。
その姿は長年自分が恋焦がれていたあの人だった。
「――………やぁ、シオネ…。」
瀬戸口の目の前にシオネ=アラダが立っていた。
いや、彼女は足が不自由なので宙にふわふわと浮かんでいた。
瀬戸口よりも頭1つ分高いところで瀬戸口の顔を覗き込んでいる。
瀬戸口は左手でシオネの頬に触れた。
左手だけがかつての鬼の姿に戻る。
シオネは己の右手を瀬戸口の鬼の左手に重ねると口を開いた。
「……………。」
その声は瀬戸口にしか聞こえなかった。
「え?今なんて………そんなこと、おで、できない!!」
「シオネ!!」
気がつくと瀬戸口は自宅のベッドに横たわっていた。
いつの間にか眠っていたらしい。
左手を真っ直ぐ天井に向かって伸ばしている。
その左手は紛れもない人間のものだった。
「なんてこった……こんなときに、あの時の夢を見ちまうなんてな………。」
瀬戸口は己の左手を右手で抱きしめると、一筋の涙を流した。
朝日が昇り始めた。
ベッドの横にある窓から光が差し込み瀬戸口の横顔を照らす。
その横顔は鬼のようにも、人のようにも見えた。