さらに翌日の昼。
総統官邸から抜け出した明日花は前に遠坂の別邸に行ったときの記憶をたどり、
路線バスに乗ったり歩いたりして、1時間近くかけてなんとか到着した。
服装は魔王の城に向かう日に着てきた私服姿。
芝村舞の趣味の服しか置いていない自分の部屋にとっては、
唯一自分の好みが反映されていて、ある意味戦闘服だ。
髪は霊調するときに髪留めが落ちてしまうので、下ろしたまま。
遠坂は総統官邸で勤務中なため、ここにはいない。
真紀のクローンと話す、絶好のチャンスなのだ。
家の門から様子を伺うと、狙いの人物は庭で花壇の手入れをしている。
「真紀さん、心の準備はいい?」
【はい。よろしくお願いします。】
「よし、じゃあ行こうか。」
明日花は真紀に最終確認をすると、門の所から庭にいる人物へと声をかける。
「真紀さーん!こんにちはー!」
大きな声で明日花が呼びかけると、その人物は肩を跳ね上がらせて振り向いた。
そしてこちらへ駆け寄ってくる。
「明日花さん!どうしたんですか、こんな所へ。」
「えへへ・・・。ちょっと散歩に。」
明日花は嘘を言った。
「散歩って、歩いてすぐに来られるような距離じゃ・・・。
と、とにかく入ってください。今、お茶をお出しします。」
真紀のクローンは言いながら門を開け、明日花を庭へ招き入れた。
そのまま屋敷内に導こうとするが・・・、
「いや、いいよここで。
それより、真紀さんに会わせたい人がいるの。」
ちょうど噴水の前で明日花が足を止めたので、彼女も止めざる負えなかった。
「会わせたい・・・人?」
真紀のクローンは目を瞬かせる。
遠坂の別宅の研究室で生まれ育った成体クローンで遠坂に遣える自分は行動範囲が著しく限られている。
そんな自分に会いたいという人物になど、心当たりはない。
真紀のクローンの反応を、明日花は少し困ったように笑い、
「真紀さんにとっては、会いたくない人かもしれない・・・。
でも、貴女達のことをずっと見守っていた人だから、会ってあげてほしい。」
そして真剣な目で言った。
「見守っていた・・・人?」
真紀のクローンはさらに目を瞬かせる。
自分にそんな人がいるはずが・・・。
しかし、明日花はその呟きには答えずに、
「会えばわかるよ。
待ってね、今呼ぶから・・・。」
そう言うと静かに目を瞑った。
明日花は心を鎮め、集中して能力を呼び覚ます・・・。
(真紀さん。いいよ、入ってきて・・・。)
【はい・・・。】
明日花の呼び掛けに応え、田辺真紀の霊が明日花の体に宿る。
「えっ・・・何?」
真紀のクローンは明日花の黒髪が銀になったのを見て驚く。
髪と瞳の色が変わりきり、閉じられていた目が開くと、
すでにもうその人物は斉藤明日花ではなかった。
今は、
『初めまして。私、田辺真紀です。』
田辺真紀なのである。
田辺真紀が斉藤明日花の体を借りて、生と死の壁を乗り換え自らのクローンと対峙しているのだ。
姿形は違えど、今この場所にいる人物は2人とも“田辺真紀”。
他人の体を借りて甦った本来の田辺真紀と、他人の記憶を頼りに作られた代替品の田辺真紀だ。
「えっ・・・ど、どういうこと?」
代替品の真紀―クローンはこの事態が全く読めずにいる。
『明日花さんが持っている霊調技能。
その能力と体をお借りして、私は貴女と話す事ができるんです。』
「そ、そんな・・・信じられない・・・。」
クローンは目の前の人物が信じられなくて2〜3歩後ろに下がる。
『本当なんです、信じてくださ・・・、』
真紀がクローンとの差を縮めようと一歩足を踏み出した時、
『きゃあっ!?』
コケた。
何の前触れもなくコケた。
そして、
『うっ・・・!』
どうわけだか、非常に非科学的なことだったが、突然降ってきたタライに頭をぶつけた。
『痛たたたた・・・。』
真紀は頭を抑えてうずくまる。
「なんで・・・。」
クローンはそんな光景を愕然と見ていたかと思うと、
「なんでタライが・・・。私には出せなかったのに・・・。」
そして真紀の腕を引っ張って無理矢理立たせ、そのまま揺さぶる。
『きゃっ・・・!』
「私が転んでもタライは降ってこなかった!
その度にずっと圭吾様は寂しそうな顔をされて・・・!
そんな在り得ないこと、出来るわけないのに!
他のことならちゃんとオリジナルになりきれる・・・。
でもそれが出来ないから、私は・・・、
私は完全に田辺真紀になれなくていつも悔しいのに!」
そこまで一気にまくし立てると、真紀の腕を離した。
真紀はその場に尻餅をつく。
「なのに今更現れるなんてどういうつもりですか?
私のことを笑いに来たとでも?
でもね、残念ですが今圭吾様のお側にいるのは私なんです。
死んだ貴女じゃないんですよ!お分かりですか!!」
クローンは真紀を見下ろしながら言葉を浴びせかけた。
彼女が“田辺真紀”として動いているときでは出ないような強い口調で。
1度言葉を切って、枯れた喉を鳴らす。
そしてさらに言葉を重ねた。
「私は・・・いや、私だけじゃない。
私の前の13人のクローン達も皆、貴女を憎んでいるんです。
貴女が死んだから。
だから圭吾様はずっと、寂しいままなんですよ!!
そもそも私達クローンに不具合なんていうものはなかった。
ただ圭吾様の悲しみと寂しさを感じ、愛してしまった。
その為に貴女のフリができなくなって、それを圭吾様に知られてしまったから。」
彼女、いや彼女達はずっと側で遠坂のことを見てきたのだ。
12年間、ずっと1人の少女だけを追いかけてきた悲しい男のことを。
14人もの人工生命を犠牲にしてでもそれを捨てられなかった哀れな男を。
「それなのに・・・何度代替わりしても私達は結局、あの人を愛してしまう・・・。
だからあの人を置いていった田辺真紀でいたくなくなって、失敗して、消されてしまって。
ならば私は・・・、あの人を独りにしてしまうなら何があっても田辺真紀でいなければいけない。
そう思って日々耐えているのに、どうして今更貴女が現れるんですか!
死んだのにまた、圭吾様を盗る気なんですか!?」
そこまで言って、クローンはようやく言葉を切る。
その想いはずっと、蓄積されていたのだろう。
自らの想いと、遠坂の悲しみを。
しかし愛する者のためならばそれらは決して誰にも言えず、誰にもぶつけられず。
そしてそこに全ての元凶となった張本人が現れた。
ならば溜まっていたものが爆発して、溢れ出してしまうのも無理はない。
クローンは肩で息をしながら真紀の反応を覗っている。
真紀はゆっくりと立ち上がり、スカートに付いた埃を払う。
そしてクローンの手を取り、
『よかった・・・。
私の代わりに、遠坂さんを愛してくれる人がいて。』
優しく、花がほころぶような笑顔で言った。
「なっ・・・!」
予想だにしなかった言葉と行動に、クローンは息を詰まらせる。
真紀はクローンの戸惑いを受け入れるようにまた微笑むと、静かに言葉を紡ぐ。
『私も、寂しそうで悲しい遠坂さんを見ているのがずっと苦しかった。
側にいられないのが辛かった。
それなのに何も出来ない私の代わりに貴女達がいてくれるから、
私はずっと感謝していたんです。
そして、ずっと謝りたかった。
ごめんなさい。
ずっと辛い想いをさせて、傷つくのを止められなくて。
それに・・・ありがとう、あの人の側にいてくれて。
あの人を愛してくれて。』
「そ、そんな・・・。」
真紀の言葉を受けて、クローンが目を見張る。
あんなに辛辣な言葉をぶつけたというのに、こんなことを言ってくるなんて思いもしなかった。
どんなに責められてもその相手を憎みもせずに笑いかけてくる心が広く穏やかな女性になんて・・・。
自分には。
まがい物の生命である自分には、敵うわけがないじゃないか。
やっぱり、自分にこの人の代わりなんて務まらないのだ。
そう思ったクローンは、真紀の微笑みから耐えられずに目を逸らした。
『そんな顔しないで。』
すると真紀はそっとクローンの顔に手をそえて、俯いた顔を上げさせる。
そしてまっすぐに相手の目を見つめる。
『私にとっては、遠坂さんが幸せになることはもちろんですが、
貴女達クローンの方にも幸せになって欲しいんです。
だって、私の代わりじゃなくても、貴女は貴女の意志であの人を愛している。
貴女は貴女の意志であの人の幸せを願ってくれている。
なら、私が邪魔になっちゃ駄目じゃないですか。
だから・・・、お願いがあるんです。』
「おね・・・がい?」
真紀が言った言葉を、クローンは呟いて返す。
『“田辺真紀”としてじゃなくて、“貴女”としてあの人を愛してください。
少しずつでいいですから、貴女の気持ちをあの人に伝えて。
私のフリが出来ないと消されてしまうという恐怖があるのはわかっていますけど、
私を想ったままでは、あの人の悲しみは癒えないまま。
だから貴女にお願いなんです。
あの人の中にある私への想いを消してください。
私以上に、あの人を愛してください。
どうか遠坂さんと一緒に、幸せになってください。
そうしたら私、やっと思い残す事がなくなって、旅立てますから。』
「そ、そんな・・・私には、そんなこと・・・。」
クローンは自分には無理だと思った。
愛する者の幸せのために、自分への想いが消えることを望めるような人に勝つなんて。
どうすればいいのか、それが本当に正しいのか本当にわからない。
いっそ、消えるべきは自分で、あの人の側にあり続けるのがこの女性であればいいのにとさえ思う。
そんな想いに気づいたのか、真紀は静かに首を横に振る。
『無理・・・なんてことはやってみないとわかりません。
時間はかかるかもしれませんが、きっと貴女の想いは伝わります。
死んだ人間には出来ないけれど、生きている貴女にはできることがいっぱいあるじゃないですか。
だから大丈夫!
がんばればいつかは良い天気になりますよ。
貴女の心にもきっと、お日さまが出るはずです。』
そう言う真紀はずっと変わらぬ笑顔でクローンを促すが、
クローンはその笑顔に応える言葉を見つけられないままだった。
(真紀さん、ごめん。そろそろ限界・・・。)
その時、真紀の心に明日花の声が届いてきた。
どうやら、真紀が明日花の体に宿っていられる限界が来たようだ。
『・・・あ、はい。わかりました、明日花さん。』
別に上にいるわけでもないのに真紀は上を向いて明日花に返事をすると、
クローンに向き直り、最後に笑いかける。
『大丈夫。
あの人を想う心がある貴女なら、叶えられますから。
私はずっと貴女を見守っています、がんばって・・・。』
その言葉が終わると、明日花の髪と目の色は元の色に戻った。
後には俯いたままのクローンが残されている。
「え、えっと・・・。」
自らの体の主導権を返却してもらった明日花は、目の前のクローンに何かを言おうとして躊躇う。
明日花は真紀とクローンのやり取りを知っている。
(ここは下手に何も言わないでそっとしておく方がいいか。
気持ちの整理も出来てないだろうし・・・。)
とはいえ、無言のまま帰るなんていうことも出来ない。
「じゃ、じゃあ話も終わったことだし、私帰るよ。
・・・急にごめんね。
でも、真紀さんは貴女のことを思って言ったことだから。
だからあの、その、・・・うん!
元気出して、出来る所からやってみればいいと思う。
急に何もかも出来ることなんかない。
ちょっとずつでも出来るようになる。
それは素晴らしいことなんだから。
じゃあ!」
そう言うと、明日花はクローンに背を向けて歩き出した。
その帰り道。
路線バスと歩きで1時間近くかかる道のりを歩きながら、明日花は真紀に尋ねる。
(あれで良かったの?)
【はい。
やっぱり、遠坂さんにもクローンの方にも幸せになってもらいたいですから。
ずっと謝りたかったことと、お礼の言葉、言えましたし。
だからありがとうございます、明日花さん。】
(いいよ、別に。
私もどうにかなって欲しいと思ってたから。
それにしても・・・上手くいくかな?)
【行きますよ。
少なくても、私よりは。
死んだ人間よりも、生きている人間の方が出来ることは多いんですから。
だから私はもう、何も言わないでずっと2人のことを見守り続けようと思います。】
(そう。
なら、私はあっちの真紀さんの様子に気をつけておくよ。
ちょくちょく会うことは出来ないだろうけど、遠坂さんにそれとなく聞いたりしてさ。
何か変なことがあったら呼ぶね?)
【はい!お願いしますね、明日花さん!】
(りょーかい。)
そして明日花は道を急いだ。
太陽は夕焼けの位置へと移動しようとしていた。
その日の夜。
「お帰りなさい、遠坂さん。」
「ただいま戻りました、真紀さん。」
帰宅した遠坂をクローンは出迎えた。
「昨日は書類を届けてくださってありがとうございます。
本当に助かりましたよ。
あれがなかったら、どうなっていたことか・・・。
屋敷からあそこまで結構距離があるのに、忙しい中無理を言ってすみませんでした。
疲れませんでしたか?お体に異常はありませんか?」
「・・・。」
「・・・真紀さん?」
「・・・あっ!
すみません、遠坂さん!ちょっ、ちょっと考え事をしていて・・・。」
クローンの頭の中には、昼間真紀に言われた言葉が響いていた。
私の想いを圭吾様に伝えてって・・・。
圭吾様の中にある田辺真紀への気持ちを消してって、どうしたらいいの?
「真紀さん、本当に大丈夫ですか?」
知らず知らずのうちに俯いてしまったクローンを心配し、遠坂は顔を覗き込む。
「い、いえ!本当に大丈夫ですよ、圭吾様!」
そして不意を打たれて、つい呼び方を間違えてしまった。
「・・・今、何か言いましたか。」
それに気づいた遠坂の表情が変わった。
愛しい人を心配する表情から、道具をみるような冷たい目に。
その目に見つめられると、クローンは本来の役割以外は果たせなくなる。
「い、いえ何も!
何も言ってないですよ、遠坂さん。」
そう呼び直すと、遠坂は幸せそうな笑顔に戻った。
「そうですか。
それならばいいのですが、何か調子が悪かったらいつでも言ってくださいね。
ここの医療設備は万全ですから、いつでも本調子に治して差し上げますから。
わかりましたか、真紀さん?」
最後の呼びかける言葉。
これは強めに発せられた。
まるで念を押すように。
「は、はい!わかりました、遠坂さん。
では、私、ご夕食の用意をしますね。」
そう言ってクローンは、その場から逃げるように走り出した。
転ぶ演技も忘れて、廊下の角を曲がる。
曲がって、厨房に飛び込んだときに涙が出てきた。
(駄目よ・・・!
名前を間違えただけでもあんなに冷たい目をされたのに、
“私”があの人に気持ちを伝えるなんて・・・。
変えるなんて、そんなこと出来ないよ!)
本当にどうすればいいのかわからなかった。
何を言えばいいのか、何をすればいいのか本当に思い浮かばない。
ずっと他人の、“田辺真紀”の代わりをしていられるだけなら、こんなに苦しまなかったはずなのに。
しかしもう、“自分”という意志が芽生えてしまった自分にはどうにもならなかった。
それに、本物の田辺真紀の願いを聞いてしまった今では、自分を封印して演技を続けるのも難しい。
(どうやって幸せになればいいのよ・・・。)
クローンの少女は途方に暮れてしまう。
せめて、せめて今は愛するあの人が心配してやって来ないうちに、
この涙が止まってくれないか。
それだけをとにかく強く願った。