厚志の私室から廊下に出ると、炎はもう廊下に燃え広がっていた。
所々、壁が崩れ落ちているところがある。
瀬戸口は明日花を抱きかかえながら、もう1人の人物を救うために廊下を駆け出した。
それは瀬戸口の部屋の奥に眠る最愛の妻。
彼女を失うことは自分にとって、死ぬことよりも辛い。
先に厚志を探すことを優先し時間がかかってしまった分、
心には焦りばかりがうずまく。
だが、この廊下の角を曲がれば目的の場所はすぐそこだ。
ならばあとは妻と明日花を抱えて逃げればいい。
他に逃げ遅れた職員がいたとしても、それはもう正直どうでもいい。
とにかく妻と知り合いの少女を安全な所へ逃がすのが先なのだ。
しかし、
「・・・な、なんだと!!」
目的の場所、瀬戸口の部屋へと続く廊下は天井が崩れ、彼の行き先を完全に塞いでいた。
辛うじて見えた数センチだけ開いているドアからは、激しい炎が漏れている。
部屋の中にあるものは、もれなく炎に身を晒されているだろう。
瀬戸口は茫然とし、その光景を見やる。
「み・・・未央ぉっ!!」
数秒機能を停止させた後、瀬戸口は廊下に明日花を横たえ、
行き先を塞ぐ瓦礫をどかすために手をかけようとする。
だが、廊下を駆ける炎の速度はあまりにも速い。
背後に横たわる明日花を振り向くと、炎はもう彼女のすぐ側に迫っていた。
「くっ・・・!」
それでも妻を助け出そうと、もう一度瓦礫の先にあるドアに目をやるが、
ドアの隙間から漏れ出る炎は消えていない。
背後にいるまだ息がある少女。
そして炎が吹き荒れる部屋の中にある、妻の魂を閉じ込めた妻の遺体。
どんなに考えても、どんなに速く行動したとしても、
実際に助けられるのはどちらか一方だけだろう。
炎で熱くなっている体からは元々汗が噴出されているが、
それとは別の汗が流れる。
その汗は腕を伝い、左手薬指の指輪の下を通って滴り落ちる。
雫が床に落ち一瞬で蒸発したとき、彼は決断した。
「くそぉっ!」
瀬戸口はそれまで目の前にあったもの全てを振り切るように明日花へと振り向いた。
その瞬間、汗で滑りやすくなった左手の薬指から指輪が抜ける。
床に落ち、跳ね返るがそのことには気づかない。
瀬戸口は明日花を抱き上げ、外へと駆け出した。
愛する妻の体と少女の命。
そのどちらとも彼にとっては失い難いものではあったが、迷っている時間は短く、決断は早かった。
なぜならばそれらは、すでに失われた命とまだ未来がある命。
どちらが優先であるかは誰が考えても明確であろう。
間違いはない。
それにも関わらず瀬戸口は涙を流しながら走る。
皮肉にも彼は、これで妻がこの世の者ではないと自覚することとなってしまったのだ。
だから決断に対する後悔ではなく、置いていくしかできない妻に対して涙を流す。
もっと早くに自覚していれば、こんなところで誰にも見送られずに1人きりで灰になることもさせなかったのに。
しかしその妻は夫の心情とは別に、微笑んでいた。
炎が荒れ狂い、今にも焼け落ちそうな部屋の中で1人きりで。
動かないはずのその顔は、確かに微笑んで見えた。
「厚志様ー!厚志様ーー!」
魔王芝村厚志を救出すべく、遠坂は周囲の手を振りきり炎の中に身を投げた。
駆けつけたときにはもう炎は建物内を包みきり、逃げ遅れた人物の救出は非常に困難である。
救出しようにも下手に飛び込んだら生きて戻ってこられなくなる可能性だって低くはない。
普段の冷静な遠坂ならばすぐに考え付くことだが、
忠義を誓った主の危機とあっては黙って見ていることなど出来なかった。
喉を痛めながらも、必死で主の名を呼びかけながら奥へと進む。
彼は主のことに必死だった。
だから、今自らに迫っている危機に気づかなかった。
「遠坂さん、危ない!!」
「なっ・・・!」
遠坂は突然何者かに突き飛ばされた。
慌てて振り向いて見ると、
「真紀さんっ!!」
そこには柱の下敷きになっている真紀の姿があった。
倒れてくる柱に気づかなかった遠坂は、真紀に突き飛ばされることによって難を逃れたのだ。
だが、その代償として真紀が柱の下敷きになっている。
「真紀さん!大丈夫ですか!?」
「遠坂さん・・・良かった、無事で。」
体を柱に押し潰されながらも、遠坂を心配させないようにと真紀は笑って言う。
「ああ、なんということだ!今、どかします、!・・・くっ!!」
遠坂は真紀の上にある柱を持ち上げようとするが、人の手にはあまりにも大きすぎて不可能だ。
その上、焼かれて熱を持っているので熱い。
それでも遠坂はあきらめずに柱を持ち上げようとし続ける。
手のひらは火傷だらけだがそんなことは気にしていられなかった。
「遠坂さん!もういい、もういいから!!私のことは放っておいて、早く逃げて!!」
「できません!貴女を置いていくことなんてできるわけがないでしょう!」
真紀は手のひらを傷つけながらも自分を助けようとする遠坂に逃げるよう促すが、
遠坂はそれに応じない。
どう言って説得すべきか考えあぐねていると、遠坂の背後に目が行った。
そこにあるものを見て、真紀の体に緊張が走った。
それは、一刻も早く遠坂をここから遠ざけねばならないことを示している。
そのためにはもう、彼女は全てを捨てるくらいのことをしなくては。
「圭吾様!お願いですから逃げてください!!
私は、田辺真紀ではありません!
田辺真紀になりきれなかった欠陥品です!
だから・・・だから貴方には、これ以上私にこだわる理由はありません!」
真紀は、いや、クローンの少女は意を決して叫んだ。
彼女が田辺真紀であることをやめること。
それはすなわち、彼女の存在理由をなくすこと。
田辺真紀でなくなった彼女が遠坂の側にいられることはなくなり、
当然、愛されるなど夢のまた夢。
欠陥品であることが発覚した彼女はすぐにでも処分されてしまうだろう。
しかし、それでも彼女は構わなかった。
どのみち自分はここで燃やされて死んでしまうのだろうから今更自分が誰であろうと関係ない。
それに、歪で曖昧な存在でしかない自分でも、愛する人の身代わりとなって死ぬことが出来る。
ならば十分立派な最期ではないか。
それだけでもう、自分が今まで生きてきたことに意味はある。
負けたくないと思ったあの少女には結局負けたままな気がするが、
自分は愛する人の糧となって死ねる。
それはあの少女にはどうしたって出来ないことであろう。
どうだ、まいったか。
「なっ・・・。」
クローンの少女の言葉に、遠坂は動きを止める。
「・・・何を言っているんですか、真紀さん?」
遠坂の顔に動揺が走るが、それでも目の前の少女が愛しいあの子だと信じ込もうとする。
この少女があの子ではないなら、本物のあの子はどこに行った?
病気で重態だったが、自らの手で奇跡的に回復させ、それからずっと自分の側にいて・・・。
なのに、その少女が偽者?
だったら、それまでの日々も偽物なのか?
・・・それは困る。
彼女がいないなら、私はこれから誰を愛すればいい?
誰が愛してくれる?
金にまみれた世界で育って、
とんだ世間知らずだった私を青空のごとき晴れやかさで包んでくれた彼女以外の誰が?
「・・・愛しています、圭吾様。」
「・・・え・・・?」
偽者だと言った少女が、あの子と同じ声と姿で言った。
しかしその顔はどこか大人びていて、あの子とは似遣わなかった。
「愛しています、貴方を。
田辺真紀としてではなく、“私”として。
名前もない誰でもない存在だけれど、“私”にはこの心がある。
だから、この心こそが“私”自身なのです。」
そこまで言って、少女は1度言葉を切って、目を閉じる。
外部を切って、自らの内の心を再び確認するように。
そして再び目を開き、愛する男を映す。
「圭吾様、言いつけを破ってごめんなさい。
田辺真紀と同じ姿を持つ私がここで死ぬのは、貴方にとってとても辛いことでしょう。
だから圭吾様、私は“田辺真紀”であることを捨てて“私”になりました。
ここにいるのは田辺真紀ではありません。
貴方が愛した女性ではないのですよ。
どこの誰だかわからない赤の他人のために、これ以上危ない所にいる理由はありません。
私のことは放っておいて、早く逃げてください。」
「し、しかし・・・貴女は?
貴女も、生きているんじゃないですか。」
突然言われた言葉に混乱しながらも、遠坂は目の前の少女の命を見過ごすことができない。
ここにいるのが愛するあの子ならば、誰に何を言われても分け目も振らずに助ける。
しかし、実際にいるのはあの子ではない。
姿だけが同じの、赤の他人。
だが、そんな異質な存在でも命は命。
否定する理由が浮かばない。
放っておこうにも体は動かない。
そんな遠坂に、目の前の少女は困ったように笑う。
「なら、早く助けを呼びに行ってください。
圭吾様1人で柱を持ち上げることはできないでしょう、ね?
ここで迷っているより、その方が確実です。」
そして行くように促した。
「・・・わかりました。
すぐに助けを呼んできますから、少しだけ待っていてください!」
迷いはしたが、遠坂は少女を助けるべく立ち上がった。
そして、
「圭吾様!!」
走り出そうとする遠坂を呼び止めた。
そして、炎の熱のせいではない何かで頬を赤くしながら言う。
「その、もし・・・もし生きていられるのなら、
私、名前が欲しいです。
誰かの代わりとしてではなく、私だけの名前として。」
「名前・・・。」
「そう、名前。
・・・ほら、早く行かないと。
こうしている時間が勿体無いですよ!!」
「は、はいっ!」
少女に再度促され、遠坂は慌てて走り出した。
(フフッ。
田辺真紀ならこんな風に、後ろからせっつくようなことしないものね。
ちょっと驚かせちゃったかな?)
なんでもないやり取りだが初めて他の誰でもない自分として、
愛する人と話せたような気がする。
本当に、幸せすぎて勿体無い。
(私の・・・勝ちよね、真紀さん?)
そう言って最後に、遠坂が去っていった方向を見る。
「バイバイ、圭吾様。」
その瞬間、炎は舞い上がり、壁となった。
廊下の先などもう見えない。
そして先ほどまで遠坂の背景として映っていたものに炎が近付く。
それは曲がり角の先がどこかを表すプレートで、
そこに書かれている文字は調理室=Aそう書かれている。
炎はその文字が示す場所へと忍び寄る。
「遠坂!」
「瀬戸口!」
出口へと向かう途中で、遠坂と瀬戸口は出会った。
遠坂は瀬戸口に抱きかかえられている明日花に目を落す。
「一体、どうされたのですか?厚志様は!」
「多分、軽度の一酸化炭素中毒だ。気を失っている。
でも、早く避難させないと危ない。
厚志は脱出したよ、3番機で。」
「っ!・・・3番機で?」
「詳しいことは後で話す。
それより早く逃げるぞ!
ぐずぐずしてると、この建物と一緒にあの世行きだ。」
「いえ、ちょっと待ってください!
あちらに助けを待っている人がいるんです。
柱の下敷きに・・・。
とにかく、ついてきてください!!」
そう言って遠坂は会話を打ち切ると、もと来た道、廊下の先へと進もうとした。
しかし、
「待て遠坂!」
瀬戸口に腕を掴まれて止まる。
振り返ると瀬戸口がもう片方の手で明日花を支えている。
「なんですか!急がなくてはならないのですよ!?」
「ダメだ遠坂、あっちは・・・、」
理由を言おうとした瀬戸口の声を爆音と炎が吹き上がる音がかき消した。
音の方に耳を傾けると、遠坂が進もうとした先から炎が猛烈な勢いで吹き荒れる。
「なっ・・・!」
遠坂が茫然としてその光景を見る。
先ほどの爆発とこの炎の勢いでは、この廊下の先にある命は耐え切れずに燃え尽きてしまっただろう。
「・・・この先には調理室がある。
ガスが通っているし、ガスボンベなんかも置いてある。
さっきの爆発は、それらに引火したから・・・。
この分だと、その人は助かっていないだろう。」
「そんな!だって、あそこには・・・!」
あそこにいる人を誰だと思っているんですか。
そう思い、彼女の名前を言おうとする。
だが、
「あ・・・。」
その彼女を呼ぶべき名前が思いつかない。
自分の身代わりとなり、炎の中に置いていく自分を笑顔で見送ってくれた女性。
今まで偽りの存在として扱い、彼女のことなど全く見なかったのにそれでも愛してると言った人。
「そんな人のことを・・・私は呼ぶことすらできないのか。」
その人の命を奪った炎を見つめたまま、遠坂は呟いた。
「遠坂!
おい、遠坂!!」
瀬戸口は時間が止まってしまった遠坂の腕を引っ張り、強引にこちらを向かせる。
「・・・それが誰かはわからんがな、嘆くのは生き残ってからにしろ!
お前がこんなところで犬死してその人が喜ぶとでも言うのか?
お前が死んだら悲しむ人がいる限り、何があっても生き続けろ!
その人の気持ちを大切にしろ!
命を無駄にするな!!」
「瀬戸口・・・。」
声を張り上げた瀬戸口の目に涙が溜まる。
瀬戸口は明日花を肩に担ぎ、遠坂の腕を掴んだまま出口へ歩き出す。
「・・・もう俺は、誰も亡くしたくないんだよ・・・。」
そう弱々しく言った瀬戸口の声を聞き、その顔に涙の跡があることに初めて気がついた。
そして弱々しい声で呟いた言葉の真意。
まさか、彼も自分と同じく本当に仕方がないことがあり、誰かを諦めざる終えなかったのではないか?
ならば、思い当たる人物は・・・。
「・・・結構です。自分で進めます。」
辛いのは自分だけではない。
そう言って無駄に偉そうにする気はないが、ただ目の前の彼にこれ以上甘えるわけにはいかなかった。
「・・・そうか。
なら急ぐぞ!
少なくとも俺達には、明日花を生かす義務がある!」
「言われなくとも!!」
ただ目の前に救うべき命がある。
その使命だけを心の支えに、置いていくしかなかった命への未練と戦う。
死を招く炎に立ち向かいながら、2人はこの地獄から抜け出すため必死に走る。
やがてその目に出口が映った。