少女と遠坂は迷わずある場所を目指す。
それは少女の果たすべき任務のためである。
「失礼します。彼の方をお連れしました。」
総統官邸の奥、重たげで黒い扉を遠坂がノックすると、
「ああ。入れ。」
という、青年の低い声が返ってきた。
その声の返事を受けた遠坂が扉を開く。
「さあ、どうぞ。」
「はい。失礼します。」
少女は遠坂に促され、生徒が職員室に入る時のように畏まってその部屋に入った。
決意していることはあっても、緊張はするのだ。
少女が足を踏み入れたその部屋は赤いじゅうたんが敷き詰められ、
正面の奥に重厚な机が1つ置かれている。
その机の辺りに2人の青年がいた。
1人は赤茶の髪をしていて、もういい大人であろうに行儀悪く机に腰を降ろしている。
少女が近付いてくるのに合わせるかのように机から降り、
いかにも興味津々といった感じでニヤニヤ笑いながら少女を見てくる。
もう1人は青い髪の青年で、この部屋の主。
そう、その稀有な青い髪を持つ青年こそが噂の中心人物。
魔王である。
「こちらが国家総統、“芝村厚志”様です。」
少女の任務。
それはこの芝村厚志の相手をすること。
魔王の生け贄となること。
生け贄の少女は部屋に入る時からずっと、魔王から目を逸らさない。
魔王は少女が正面に来た時に初めて少女の目を見、射抜いた。
射抜いたといってもそれは視線での話なのだが、
本当に弓矢で胸を射抜かれたような衝撃が走る。
背筋が冷え、思わず後ずさりたくなるがそこは耐え、
魔王の青い瞳を睨み返して反撃した。
その様を見ていた赤茶の髪の青年は面白いことになったと言わんばかりに
高い音の口笛を1度鳴らし、
遠坂はほんの少しだけ動揺の色を顔に出し少女と魔王を見守る。
しかし魔王はその反撃に何のリアクションもせずに、
「お前・・・名前は何と言う?」
と、挨拶もせずにいきなり訊ねてきた。
確かに少女からの挨拶はまだだったのだが、そのあまりに尊大な態度に内心むっとなる。
「はい、私は、」
「いや、やはり言わなくていい。」
「は・・・?」
せっかくの名乗りを魔王に止められ、少女は思わず間抜けな声を上げた。
(な・・・なにそれ!人に名乗れとか言っといて!!)
本当はそう怒鳴ってやりたいが相手は魔王。
先ほどのように睨み返すのに留めることにした。
魔王はそんな少女の胸中など気づかずに言葉を続ける。
もっとも、気づいたとしても気に留めはしないのだろうが。
「お前の名前は“舞”だ。
それ以外の名を名乗ることを許さぬ。
“舞”となること・・・それがお前の存在理由と価値だ。」
それだけ言うと魔王は“私から言うことは何もない”とでも言うかのように
書類に目を落とした。
少女は、
(何それ?“舞”って何よ・・・?)
と思ったがそれが任務なら従う他無かった。
それに今はその方が賢明そうだ。
なので、
「わかりました。そのように。」
とはっきり言ってやった。
相変わらず魔王のリアクションはなかったが負けたとは思わない。
その返答が魔王と生け贄の少女の会話の終了の合図を受け取ったのか、
遠坂は少女に話し掛けてきた。
「それではこれから貴方にとある教育を受けていただきます。行きましょう。」
「はい。」
そう返事をすると、少女は遠坂の後をついて歩き出した。
だが、部屋を出ようと扉をくぐる時に、
「うっ!」
緊張のために距離感を間違えてしまったのか。
扉の縁に思い切りつま先をぶつけてしまった。
痛い。
足を抑えたいが魔王の眼前で・・・といってもこちらを向いてすらいないが、
そんな情けない真似はしたくない。
足の痛みに耐えて平静を装いながら振り返ると、
「・・・ぷっ。ははっ・・・!」
赤茶の髪の青年が噴出していた。
少女はそれにも流されずに気丈に、
「失礼しました。」
と、職員室から出る時のように落ち着いた様子で部屋を出て行った。
扉が閉まりきったのを確認した後、赤茶の髪の青年は堪えていた笑いの発作を一気に吐き出した。
「あっははははは!いいね、面白い娘が入ってきた!」
「五月蝿い。黙れ瀬戸口。」
「あらら。こりゃあ失礼。」
魔王は冷たい声で言い放つが、言われた方―瀬戸口隆之はそれに動じることなく
軽い調子でいちおうの謝罪の言葉を述べた。
「遠坂がスカウトしてきただけあって、姫さんと瓜2つだね。
気の強いところというか、雰囲気も似ている。」
「・・・あの子はあんなに迂闊ではない。」
「あ〜、その辺はなんか田辺を思い出すねぇ。からかったら楽しそう♪」
「・・・俺に向けてきた眼差し。お前の罵倒を相手にしているときの壬生屋を思い出したぞ。」
「・・・っ!」
ここで初めて瀬戸口の軽い調子が止まった。
一転して苦いものを噛みしめているような顔になる。
「気づかなかったか?」
「・・・さあ?知らないね、そんなの。」
そして魔王の視線から外れ、扉へと向かう。
「・・・まあいい。
あの娘が何者であろうが、“舞”になってもらわないと困る。
手を出すなよ?」
「わかってるよ。」
そして瀬戸口は扉を開け、部屋の外に出た。
廊下の先に、角を曲がる少女の後ろ姿が見えた。
角を2回曲がったところにある部屋の前で1度止まる。
「こちらが貴方の自室になる部屋です。」
遠坂が扉を開け、先に少女が入り後に遠坂が入る。
扉が閉められた瞬間、
「・・・ぁっだああああああ!!」
少女は先ほどぶつけたつま先を抑えてうずくまった。
魔王の目が届きそうな場所から離れるまで、ずっと我慢していたのだ。
その悲鳴に驚いた遠坂が慌てて少女に駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫なわけないでしょ!・・・っつあぁぁ〜。」
少女は敬語も忘れて反射的に言い返した。
「お、折れてない・・・ですよね?」
そんな少女に驚かされつつも遠坂は心配を続ける。
「う、うん・・・くぅ〜・・・。」
それからしばらく、少女は痛みと格闘する。
数分後。
うめいているうちに痛みは治まってきたようだ。
静かになった少女に遠坂は声をかける。
「落ち着きました?」
遠坂の声に少女は現実を思い出し、肩をびくっと震わせた。
「あ・・・だ、大丈夫です。すみません、怒鳴ったりなんかして・・・。」
と言って顔を赤らめる。
先ほど魔王と対峙した時とは違う、ミドルティーンらしい初々しい表情。
いや、自分が彼女をスカウトした時からずっと、こんな微笑ましい表情は見た事がなかった。
いつも目の前の何かと戦っていたり、決意に満ちた目をしていた。
そして、初めてこの少女を目にしたときも・・・。
遠坂は目の前の少女の新たな一面を垣間見、素直に嬉しく思った。
仕事用の柔和な笑顔ではなく、極々一部の親しい人にしか見せない笑顔で少女に言う。
・・・思えば、こんなに気持ち良く微笑むのは何年ぶりか。
「構いませんよ、全然。それにどんな事情があっても、私達は同じ場所で働く仲間です。
もっと気軽に接してください。」
そう言うと立ち上がって、少女に手を差し伸べた。
「あぁ、すみません。ありがとうございます。
私って、どういうわけか何もないところでコケたり、
引き戸だってわかってるのにドアノブ探しちゃったりとか、
変なドジばっかりよくやるんですよ。
気を張ってても、変なところで台無しにしちゃったりとか・・・。」
少女は遠坂の手を取り、立ち上がる。
「あはは。個性的で良いじゃないですか。
可愛らしい、と思いますよ。」
「そうですか?」
「ええ。
・・・ところで、転んだ拍子にタライが降ってきたりはしませんか?」
「・・・何?その非科学的な現象は・・・。」
「あはは・・・いや、こちらの話です。」
遠坂はつま先のダメージで歩きづらい少女を労わりながら、
近くにあったソファーに少女をエスコートする。
「うわー・・・。」
ソファーに座った少女は、ここで初めて部屋の中を観察した。
今いる部屋にはコの字型の革べりのソファーと高級そうな石と木で作られたテーブルが中央に置かれ、
テーブルの向こう側には大きなテレビが置かれている。
ビデオとDVDのどちらも使用できる最新のデッキが置かれており、ステレオも完備。
友達を何人か呼んでの映画鑑賞会ができそうだ。
他には何も無くて、ここは談話室のような部屋だった。
奥にはさらに扉がいくつかある。
“自室”というからにはここで寝泊りしろということのはず。
ならば“ベッド”や“風呂”などの必要なものはその先にあるのだろう。
ホテルのように綺麗で大きな部屋をあてがわれて、少女は恐縮した。
「あの・・・、こんなすごい部屋でいいんですか?間違えてません?」
座らずに正面に立ったままの遠坂につい聞いてしまう。
聞かれた方の遠坂は、
「間違えてませんよ。貴方は“彼の人”になるお役目を担う方なのですから。」
と当たり前のようににこやかに言った。
この笑顔は仕事用か本心かどちらなのだろう?
とにかく当然だと言わんばかりに言い切った。
そんな遠坂の様子に、少女の顔は眉をひそめる。
「彼の人・・・。それって、魔王が言ってた“舞”のこと・・・?」
「ええ。貴女には“芝村舞”になりきって、いや、そのものになっていただきます。
まずはこちらをご覧になっていただいた方が早いですね。」
そう言うと遠坂は持っていたファイルから一枚のプリントを差し出した。
そこには・・・、
「こ、これっ!・・・私?」
少女と瓜二つの顔が映っていた。
黒く先が丸まった髪に、茶色の気の強そうな瞳。
唯一の違いといえば着ているものと髪型くらいか。
プリントに写っている少女は白いゴムでポニーテールをしているが、
そのプリントを見ている少女は髪飾りで髪を挟んで上げている。
「そちらが芝村舞です。
貴女の仕事は芝村舞そのものになることです。」
遠坂は少女の動揺など全く気にせずに言い放つ。
「え・・・?芝村舞に・・・なる?」
「はい。その通りです。」
遠坂は態度を変えない。
「芝村舞って・・・何?」
「厚志様の想い人です。」
「想い人?・・・本人は?」
「12年前に亡くなりました。」
「!!」
遠坂は少女の疑問に淀みなく答えていった。
それを聞き、少女は驚き言葉が詰まる。
そんな少女を見ても遠坂は少しも変わらぬ口調と表情で言う。
「どうしました?
貴女は目的のためならどんなことでもするのではなかったのですか?」
目的――!!
そうだ、私にはやらなければならないことがある。
遠坂からその言葉を聞いて、薄くなっていた決意が再び甦る。
「――そうだ。
私はそのためにここに来たんだ。」
そして決意を含んだ目で遠坂を見返した。
その目を見て、ほんの少しだけ遠坂の口元がつり上がった。
「よろしい。これから数日間、ここで彼の人になっていただくために学んでいただきます。
まずはこちらのファイルを目に通し、全部覚えてください。
明日は別のファイルを渡しますからそれも同様に。
見ていただく画像も多数あります。」
「はい。」
「結構。こちらの部屋は自由に使って頂いて構いませんが、
彼の人になるまでは部屋を出ることは許しません。
鍵も掛けさせていただきます。
食事は時間になったらお持ちしますのでご心配なく。
何か質問事項があったら内線を使って私の方へ。」
「はい。わかりました。」
「結構です。それでは私はこれで。」
「はい。ありがとうございました。」
少女は座ったまま遠坂に頭を下げた。
遠坂はそれを見、扉を開けて部屋を出た。
扉をロックするのを忘れない。
それが済んだ後、遠坂は壁に背を預け右手で顔を覆い、天を仰いだ。
毎度のこととはいえ、その仕事をするものが必要だとはいえ、少女を連れてきたのが自分だとはいえ・・・。
やりきれなさは消えるものではなかった。
あんなに個性的で、自分を持っていて、まだ何も知らない穢れのない少女に・・・、
他人になれ=Aなど・・・。
今まで彼女と同じ任務についた少女を見てきたが、その全員がどれも悲惨な結末に終わった。
精神をおかしくしたもの、心や体に傷を負ったもの、命を落としたもの・・・。
かろうじて逃げられた者もいたが、それでも受けた心の傷は軽くはないのだろう。
「あの娘は、どのくらい保ってくれるのだろうか・・・。」
それだけ呟くと、遠坂は沈んだ気持ちのままその場を後にした。