少女が魔王の城にやってきてから数日。
彼女は必死に勉強し、“芝村舞”になった。
口調や仕草は完璧。
部屋に閉じ込められるのがなんだかむかついたので、
彼女が持っているであろうプログラミングなどの専門知識でさえも
腹いせと言わんばかりに丸暗記してやった。
端末などがこの部屋にはなかったので実践となるとどうなるかわからないが、
用語の説明くらいなら大体一通りはできると思う。
昨日、彼女がどのくらい芝村舞になれたのかを遠坂がテストし、見事に合格をもらえた。
そして今日、初の任務となる。
少女は洗面所にある鏡で自身の姿をチェックする。
胸元の赤いリボンは完璧。
ストッキングに電線はないし、純白の靴下にも汚れはない。
少女は戦時中、女子学兵が着ていた制服を着ている。
学兵の制服は小学校高学年の社会の授業で教科書に載っているのを見た事がある。
中学校になっても何かの授業でよく目にし、
定期テストの問題用紙にも写真が載っていた。
たまにニュース番組で昔の映像の中に混ざっていることもあったが、
実物を見ることは初めてだったし、まさか自分が着ることになるとは思わなかった。
自分にとっては女子学生の制服の下はスカートなのが常識なので、
下がキュロットの学兵の制服は新鮮だと思うし、
下着を見られる事がないので機能的だなと感心したりもする。
髪型も白のゴムひもでポニーテール、バッチリだ。
彼女がわかる範囲で外見上での失態はなかった。
後は遠坂が呼びに来るのを待つだけ。
身支度が終わった少女は鏡に映った自分の顔を見つめる。
硬い表情の自分が映る。
それが嫌でなんとか笑顔を映そうと顔面の筋肉と動かすが、
そんなに変わらなかった。
そこに映る表情、それは不安。
不安が彼女の顔から笑みを奪っていた。
「大丈夫、きっとなんとかなる。・・・生きてここから出るんでしょ?
なら、もっとしゃんとしようよ。私なら切り抜けられるから・・・。」
鏡の中の自分に言い聞かす。
それでも鏡の中の表情は晴れない。
自分は芝村舞になり切れているのか、なり続けていられるのか。
また、芝村舞になった自分はどんな目に遭うのか。
不安が湧き出るばかりで尽きることはなかった。
不安そうな自分の顔を見ているのが嫌になった少女は洗面所を出て、
談話室のような部屋―もとい居間へ向かった。
居間へ向かう途中、数センチほどのちょっとした段差に気を取られて転びかけてしまう。
平常心になれていないためか、普段のちょっとしたドジを抑制する方に気を留める余裕が出てこない。
いけないいけない。
芝村舞はこんなドジはしないんだ。
せめて魔王の前だけでもきちんとしていないと。
少女は頭を振って気を引き締め、居間のソファーに腰掛けた。
腰掛けて間もなく、部屋にノックの音が響き、
「遠坂です。迎えに来ましたよ。」
遠坂が少女を呼ぶ声がした。
それは少女を戦場へと呼ぶ声。
魔王と対峙するその場所へ。
「はい。今行きます!」
少女は扉の向こうにいる遠坂へ声をかけると、
両手で挟むように己の頬を叩いた。
何の足しにもならないかもしれないが、そうやって気合を入れてやる。
すると少女の頭は魔王と対峙することしか考えられなくなった。
不安が消えたわけではないが、とりあえずは封印できたようだ。
少女がドアノブに手をかけると、ロックはすでに外されていた。
この数日間、どうやっても動かなかったのに。
それはつまり、これからこの外では“芝村舞”として動けということである。
芝村舞になれたからこの部屋から出てもいいのだ。
だから芝村舞でない自分は外に出てはならない。
芝村舞ではない自分はここへ置いていけ。
少女は覚悟を決めると、扉を開いた。
「待たせたな。」
少女は仏頂面で遠坂に言った。
遠坂はそれを不審に思うことはなく、当然のように受け取った。
「いいえ。それでは参りましょう。」
そして遠坂は少女を伴って歩き出した。
2人はある部屋の前で足を止めた。
そこは総統官邸の1番奥にして、最も重い雰囲気が漂う場所。
魔王の自室。
日付が先ほど変わったばかりという、闇も深くなっている時間なのだが、
この場が闇に満ちている気がするのはそのせいだけではないだろう。
別に他の建物にやってきたというわけではないのに、
持っている空気があまりにも違いすぎてすごく遠くから来たように錯覚させられてしまう。
「こちらが厚志様のお部屋です。くれぐれも失礼のないように。」
「わかっている。厚志、入るぞ!」
遠坂に促され、少女は躊躇せずに扉を開けた。
そして1人で入り、扉を閉める。
そこには中央に置かれたベッドに腰掛けている魔王がいた。
「舞!待ってたよ♪」
魔王―厚志は舞となった少女の姿を認めると、ぱあっと破顔しこちらへ小走りに駆けてきた。
そして舞に飛びつくように抱きしめる。
「!!・・・なっ!」
“魔王”とは全く違う“厚志”の表情と行動に少女は舞の冷静な振る舞いを忘れて、
驚きを露にした。
抱きつかれている姿勢なので表情が見られなくてよかった。
声はつい漏れてしまったのだが、厚志はそんな少女の声を気にすることなく語りかける。
「ごめん、急に抱きついたりして・・・。
でも僕、舞が来るの、ずっと待ってたんだよ。すっごく寂しかった・・・。」
少女よりも10は年上の厚志が子供のように言い、少女の肩に額を寄せる。
(えっ・・・?これがあの“魔王”?)
少女は心の中で驚きの声を発し、眉をひそめた。
しかし、その魔王と舞はそういった間柄なのだ。
ならば今目の前にいるこの“厚志”にも対応しなければならない。
そういえば渡されたファイルは芝村舞の物ばかりで、
芝村厚志についてはあまり載っていなかった気がする。
その都度対処していけということか・・・?
まあ、確かにデータで対応しすぎても新鮮な反応が出来なくなるのだろうが・・・。
(その辺は、もうちょっと詳しくしてくれてもよかったと思います、遠坂さん・・・。)
少女はここにいない相手に心の中だけで愚痴を言うと、芝村舞に戻った。
「すまなかったな、厚志。
これからは私がお前と共にいる。
だから、心配するな。」
そう耳元で優しく言ってやると、そっと背中に手を回した。
「舞・・・。」
それに安堵したのか、厚志はうっとりとため息を吐く。
しばらく無言の時が流れる。
しかし、それもつかの間、
「舞・・・舞っ!」
「きゃっ・・・!」
厚志は舞を抱き上げると走り出し、ベッドに投げ出した。
ベッドに叩きつけられた衝撃で状況の把握に手間取る。
その間に厚志は舞の上に覆い被さり、
「!!!!」
かなり一方的に唇を奪った。
1度唇を離し、またそれを行い、今度は深く味わう。
それは少女にとって全く予想外の出来事で、そして初めての経験だった。
最初はショックと混乱で頭がいっぱいだったが、
今のこの状況がわかってくると猛烈に腹が立った。
「ちょっ・・・何すんのよ、この野郎!!」
つい怒りに任せて厚志を全力で突き飛ばしてしまった。
少女は厚志をベッドから落とすつもりで突き飛ばしたのだが、
15歳の力では不可能で、体を数十センチほど離すくらいしかできなかった。
それでも構わず少女は言葉を続ける。
「い、いきなり他人にキスするなんて何考えてんの!
もう、いやだ。こんな所出て行ってやる!!」
少女は涙を流しベッドに背を付けたまま、厚志を跳ね除けようと暴れる。
それを厚志はうな垂れ、されるがままにしていたのでその表情は少女からは見えなかった。
少女がどんなに暴れても厚志はびくともせず、そのままの姿勢で固まっている。
しかし、突然、
――バシッ!
糸を持ち上げられた操り人形のように右手を上げると、そのまま少女の頬を張った。
「・・・っ!」
拳ではなかったとはいえ、あまり手加減はされていない。
すぐに赤くなってきた頬を、手で抑えようとした。
だが、
「っああっ!!」
すぐに両手首を掴まれてベッドに押さえつけられる。
その痛みに目をつむっていると、厚志の顔がすぐ眼前にやってきた。
そして、身も凍るような低い声で囁く。
「1度しか言わない・・・だからよく聞け。」
少女が目を開け、厚志の目を見る。
「ひっ・・・!」
その目は怒りに満ち、目を離した瞬間に喉を引き裂かれてしまいそうなほどの
冷たい殺気を放っていた。
怖くて仕方がなかったが、それ故に目を逸らすことが出来ない。
「お前は何のためにここにいる・・・?
あの子の代わりになれ、あの子自身になれと言っただろう!」
そして少女の手首を掴む手に力を入れる。
痛みが増したが、少女にはそれよりも魔王の目への恐怖が強く、
逆に痛みは感じなかった。
「それが出来ないのならば、お前はいらないのだぞ。
すぐにでもその首をへし折ってもかまわない・・・。
ならば、どうする!ええっ!!」
至近距離で声を荒げられるが、この時点ですでに少女の恐怖は最大値に達しているため、
特に表情の変化は見られない。
(そんな・・・なんでこんな目に遭うの!?)
恐怖で震える瞳で少女は声も出さずに叫んだ。
(なんで私はここにいるの!なんで、なんでっ!!誰か教えてよっ!?)
少女は首を振り、ぎゅっと目を閉じた。
ここにはいない誰かに向かって叫ぶ。
すると脳裏に、懐かしい顔が浮かんだ。
その人物は少女に向かって微笑みかける。
しかし、すぐにその人物は苦しげに顔を歪め、倒れた。
そこで少女の恐怖は止まる。
(そうだ・・・私にはやらなきゃならないことがあるんだ。
私にしか、助けられないんだから。
だったらこんなこと、乗り越えてやる!!)
少女は自分に課した使命を思い出し、閉じていた目を開けた。
そして、自分の任務に戻る。
「・・・済まなかった厚志。
初めてのことだったから気が動転してしまった。
許してくれ・・・。」
そして舞は努めて穏やかに見えるように厚志を見つめ返した。
するとすぐに殺気は消え、
「そう・・・それでいい。
・・・ごめんね、僕の舞・・・。」
“魔王”は“厚志”に戻ると、優しく舞に口付けた。
今度は舞は抵抗せずにそれを受ける。
唇を離し満足そうに微笑むと、厚志は舞の服に手をかける。
そしてそれから朝までのことを少女はよく覚えていなかった。
ただ、意識を失わないように必死だったことしか覚えていなかった。
そのうちに鳥の鳴き声らしきものが聞こえてきて、
ぼんやり目を開けると見えているものに色があるのがわかる。
どうやらとっくに夜は終わっていたらしい。
ただ天井の色を監視しているだけの彼女の頭がふいに誰かに撫でられ、
「ちょっとやりすぎちゃったかな?
ごめんね、次はもっと優しくするからね。」
という声が何処からか聞こえ、額に何かが触れてきた。
その触れていた何かが離れ、動き出すと別の言葉が生まれる。
「それじゃ、行って来るね、舞。」
そしてその言葉を彼女に送った人物は遠ざかり、扉を開けて外へ出た。
―やっと解放された。
ようやく安堵の息を漏らし、力を抜いた彼女は意識を放り出し、深い眠りに落ちていった。