それから1週間が経ち―。
明日花は身支度を整えて病室を後にした。
検査の結果、後遺症は特になく、無事に退院できることになった。
それと同時に、明日花は母のもとへ帰ることになる。
この1週間の間に母の手術も無事に終わり、意識も無事に戻ったのだ。
これから遠坂の車で母が入院している病院まで送ってもらう。
早く行って、母の元気なった顔を見たい。
明日花は足早に廊下を歩く。
持ってきた私物は火事で燃えてしまったため、手荷物は紙袋1つ。
中身は入院中に瀬戸口や遠坂が持ってきたものだけ。
官邸内の自室にあった財布は当然無いので、母への見舞いの品は諦める他ない。
服は袖や裾がところどころ焦げてしまったため、真新しい服を着ている。
それは瀬戸口が選んできたもので、薄い水色のワンピース。
袖は肘より上でスカートは膝まで。
裾と袖口にはレースがあしらってある。
明日花が持っている服よりずっと女の子らしくて、なんだか落ち着かない。
焦げてしまった髪を切り、ショートカットになっているので、
鏡を見たときは我ながら別人かと思った。
(こんな格好・・・母さんが見たらビックリするだろうな・・・。)
母の驚く顔を想像して、明日花は少しブルーになる。
笑われるだろうか・・・何があったのかと心配されるだろうか・・・。
色々考えるとちょっと帰る気持ちが萎えてくる。
せわしかった足が重くなりかけたとき、
「明日花さん!」
「明日花っ!」
廊下の先から明日花を呼ぶ声がした。
考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか1階のロビーまで来てしまったのだ。
瀬戸口と遠坂はそこで待っていると言っていた。
「!!」
明日花は心の準備をする間もなく2人に会ってしまった。
完全に不意を撃たれた形になるので、紙袋で服を隠す間もなかった。
2人の声に明日花は固まり、動けなくなる。
「おっ♪
俺が選んだ服着てくれたんだ。
似合ってるよ!」
「ええ、本当に。
大人っぽく見えますよ。」
明日花の姿を見て、感想を述べながらその本人に歩み寄る。
「・・・ほ、本当に?」
2人が側にやってきてからようやくフリーズ状態が解けてきた明日花は、顔を赤くしながら尋ねた。
「やだなぁ〜、本当に決まってるじゃないか。
お世辞なんか言ってどうするんだよ。」
「瀬戸口は女性にだらしがないところがありますからね。
信用できないんですよ。
でも、私は嘘なんて吐きませんからね。
なので自信を持ってください。
本当によくお似合いですよ。」
遠坂の言葉に、瀬戸口はむっとして突っかかる。
「自分から“嘘は吐かない”なんて言う奴、それこそ信用できないと思うけど?」
「それでも貴方には女性に対してだらしがないところがあるのは事実でしょう?
なら、貴方に言われる筋合いは永遠にありませんね。」
「永遠だと〜?
俺はずっと未央一筋なの!」
「そうですか。しかし、それがいつまで保つやら・・・。」
「なんだと〜・・・?」
瀬戸口と遠坂はそのまま口喧嘩を始めてしまった。
口喧嘩といっても罵り合いではなく、親しい間柄だからこそできる言葉のじゃれ合いのようなもの。
どこか楽しげな2人のやり取りを見て、
「・・・フフッ。」
思わず笑みがこぼれてしまう。
官邸にやってきたばかりのころは、この2人がこんなやり取りをするように見えなかった。
それがなんだか嬉しくて、明日花は格好に対する照れ臭さなど忘れてしまった。
「ほらほら2人とも。送ってってくれるんじゃなかったの?」
普段どおりに戻って、いつもながらの元気な明るい調子で仲裁の声をかけた。
「あ・・・。」
「そうでした・・・。
すみません、私としたことが瀬戸口なんかに乗せられてしまって。」
「なんかって、」
「まあ、それはとにかく!
外に車を待たせてあります。早速参りましょう。
・・・さっ、お嬢さんお手をどうぞ。」
遠坂はまたも突っかかろうとする瀬戸口をあしらい、明日花に手を差し伸べた。
その仕草はまるで英国貴族のようだ。
遠坂の洗練された所作と美しさに、明日花は再び顔を赤く染めた。
遠坂が運転する黒いベンツの後部座席から、外の流れゆく景色を見る。
病院は緑に囲まれた丘の上にあって、その風景を毎日病室から見ていた。
ずっと病院にいたので、実際にその風景の中にいるのは初めてである。
背後を振り返ると遠くにかなり小さくなった病院の屋上がかろうじて見えた。
ここ一帯の景色を見るのは当分ないだろう。
“もう一生無い”と言っても間違いではない。
明日花が視線を前へと戻すと、
「あ!ちょっと止めて!」
遠坂に車を停止してもらう。
車が止まると同時に、明日花は外に出た。
「うわ・・・。」
そこから見えたのは官邸の燃え跡だった。
自分がいる丘からさらに低い所、市街地の郊外に、
綺麗に整えられているはずのそこに似つかわしくない黒い塊が見えた。
話には聞いていたがこんなに遠くからわかるほど、見事に焼け落ちていたとは。
「近くで見てみるかい?」
明日花が車外に出た理由を察した瀬戸口が、いつのまにか隣りにいた。
口元に微笑みを浮かべて、静かな声で提案する。
「うん、ぜひ。」
明日花も小さく微笑み、落ち着いた声で返した。
車を止めて、現場検証が行われた後の焼け跡の前に立ち、
“立ち入り禁止”と書かれているテープをくぐり近付く。
すぐ足元に炭化した瓦礫が転がっている。
そんなすぐ近くにまで寄った。
今いるところが確か玄関で、ここから奥に行くと瀬戸口や遠坂の執務室、
自分が使っていた部屋、そして1番奥に厚志の自室があったはすなのだが、
今はもう判別がつかない。
本当になくなってしまったんだな、と思う。
まるで自分がここで過ごした日々自体、なかったのだというふうに。
(それでも・・・。)
明日花は自分の服に目を落し、
(それでも自分は、確かにここにいた・・・。)
そのことを確認するように短くなった髪に触れた。
服も髪も、ここに来なければ変わらなかっただろう。
(なら私は?私は何か変わった・・・?)
姿は大きく変わってしまったが、中身は、自分自身はどうだろう?
明日花は跪き目を閉じると、この魔王の城と呼ばれた場所で過ごした日々を思い出した。
母の治療費を稼ぐためにやってきたこと。
厚志にされたこと。
瀬戸口や遠坂が縛り付けていたもの。
この世を彷徨う少女達の霊。
そして自分と彼らと彼女達の想い――。
(なんだか、何年もここにいた気がする。)
1ヵ月経ったか経たないかくらいの短い期間のはずなのに、なんだかかなり多くのものを見てきた気分だ。
明日花は立ち上がると背後に立つ瀬戸口と遠坂を見る。
「・・・?」
「どうかしましたか?」
黙って見つめる明日花を不審に思うことなく、温かな目で見つめ返してくれた。
初めて会ったときは、こんなに優しく接してくれるようになるとは思わなかった。
2人とも、以前から親切ではあったがどこか冷たくてよそよそしくて・・・。
演技でない、肩の力が抜けた感じを見ると、こちらが彼ら本来の優しさなのだろう。
そんな彼らがこの12年もの間、明日花のような少女を犠牲にしていた風には到底見えない。
しかしそれを可能にした理由は、あまりにも単純で純粋なたった一つのこと。
「人を愛するって、なんだか怖いね・・・。」
明日花はポツリと呟いた。
瀬戸口と遠坂、そして厚志が人道を外れた行いを平然とやってのけた理由。
それはいずれも誰かを深く愛したからだ。
例え愛する者と死に別れようとも、それを繋ぎとめようとする深く強い愛。
明日花よりずっと年上の優しい青年達でさえ、それに踊らされ縛られてしまったのだ。
なら、自分はどうなんだろう?
まだ大人とは呼べない未熟な存在で、恋をしたことすらない自分には全くわからない。
将来丸ごと怖くなったわけではないが、未知への不安が少し芽生える。
自分が恋をしたらどうなるんだろう。
あんなに人が変わるまで、誰かを愛したらその先には何が・・・?
明日花の不安げな心を察した瀬戸口は真面目な顔で言う。
「確かに、人を愛するのは相当な覚悟が必要だと思う。
ただ好きなだけでは、相手を幸せには出来ない。
時には辛い決断もしないとならない。
それができなくて、俺達は12年も相手を苦しめてしまった。」
そして、遠坂は瀬戸口の言葉を優しい笑顔で引き継いだ。
「でも、彼女達はそんな私達を受け入れ立ち上がらせてくれた。
これも愛がなせる技なのですよ。
だから愛するということは、怖いだけではありません。
人を変えたり、癒すことだって可能なはずです。」
「そう。怖いだけだったら、俺達は誰も愛さなかった。
俺達は間違えちまったけどさ・・・。」
瀬戸口はそう言って一拍置くと、明るい笑顔になって言った。
「その分、相談に乗れることがあるはずだから。
だから君が誰かに恋をして困ったときは、遠慮なく言ってくれ。
力になってみせるから。
なっ、遠坂?」
その言葉に遠坂は大きく頷いた。
「ええ。
何せ、私達の目を覚まさせてくれた恩人ですから、明日花さんは。」
恩人と言われ、明日花は目を丸くして驚く。
「ええっ・・・!
それは私じゃなくて、未央さん達の力でしょ?
私はただ、皆を振り回しただけだよ・・・。」
「いいえ。そんなことはありません。
だって、真紀さん達の言葉を届けてくれたのは他でもない貴女の能力でしょう?
いや、能力だけじゃない・・・。
貴女が想い、動いてくださったからですよ?」
「私の・・・能力・・・想い?」
明日花は遠坂の言葉を反芻した。
そして今度は瀬戸口が数度頷いてから遠坂の言葉を引き継いだ。
「君だからこそ、俺達は立ち直った。
他でもない、君のおかげだ。
――ありがとう、明日花。」
「ありがとうございます、明日花さん。」
瀬戸口と遠坂は礼を言い、頭を垂れた。
「そんな!私・・・私・・・!」
2人の礼を受けて、明日花の視界が涙で歪む。
明日花は彼らや彼女達に対して、自分はただ事態をかき乱して困らせているだけだと思っていた。
明日花が持っている霊調の力は、未完成ゆえに中途半端で。
双方の橋渡しになろうにも、それは一瞬だけしかできないし、
それで事態が良くなっているかどうか、保障してやることはできなかった。
行き当たりばったりになるばかりだったから、自分がしたことが間違っていなかったかいつも不安だった。
だから、2人がそう言ってくれて嬉しい。
これで不安はなくなった。
自分がここに来たこと、能力のことに後悔しないでいられる。
「私こそ・・・こんなに優しくしてくれてありがとう!
色々あったけど、私、ここに来て皆に会えてよかった!!」
明日花は瞬いて涙を弾くと、万感の想いを込めて微笑んだ。
そして確信する。
ここはもう、魔王の城ではない。
それは城がなくなったからではなく、ここにはもう魔王はいないのだから。
あの噂も、そのうち消えてしまうのだろう。
消えてしまうのがいい。
その方がこれからを歩く自分達にはふさわしいのだから。