「ん・・・。」
少女は目を覚ました。
そしてむくりと起き上がる。
しばらくぼおっとしていたが自分の体に目を落とすと、
自分の身に何が起こったのか悟った。
―そうだ、自分は昨夜魔王に・・・。
事実を思い出すと何か込み上げる物がやってきた。
喉が裂けるほど喚き散らしてやりたくなる。
しかし、この結果は自分が決めた上でなったこと。
でも、それでも痛みを感じる心は止められなかった。
喚き散らさない代わりに静かに涙を流しながら、
彼女は自身の体を隠すように衣服を着始めた。
学兵の制服を着、髪を結ぶ。
どうしても鏡を見る気分にはなれないし、櫛が見当たらない。
手櫛で整えただけで髪を結わえた。
ストッキングは派手に電線していてもう履けない。
仕方がないからポケットに入れて自室へ持って帰ることにした。
顔には生気がなく、だいぶみすぼらいい格好である。
しかし、少女にはそんなことを気にしている余裕はなかった。
扉を開けて、外に出る。
俯きながら扉を閉め廊下へ向き直ると、突然正面から、
「やあ。おはよう♪」
明るい声がかかってきた。
少女が顔を上げるとそこには見覚えのある男がいた。
だが、名前はわからない。
彼は少女が出てくるのを待ちかまえていたようだ。
廊下の先から歩いてきて、彼女の1歩前で止まった。
すると、
「・・・夕べはお楽しみだったみたいだねぇ。」
と、無遠慮に失礼な言葉をかけてきた。
しかし少女にはその言葉の意味が分からず首をかしげる。
すると男は
「跡がついてる。アイツに噛まれた跡。」
自らの首元を指し示した。
「!!」
少女は顔を赤らめて自らの首元に手を当てて隠した。
そして男を睨みつける。
この男は、昨夜少女の身に何が起きたのか知っているのだ。
そしてそれをわざわざ言いに来ている。
いい気分はしない。
少女の敵意剥き出しの目に睨まれて、男は初めて焦りを見せた。
「ごめんごめん!冗談が過ぎたよ。
俺は瀬戸口隆之。遠坂と同じく、大臣をやってる。」
「大臣・・・?遠坂さんと・・・?」
少女はこの魔王の城の中で唯一の知り合いである遠坂の名を出され、
少し落ち着いた。
それにこの男は魔王とは違う雰囲気を持っている。
彼女の警戒が少し緩んだことに安堵した瀬戸口は、
自らが羽織っていた軍服の上着を少女の頭に被せて隠してやる。
「お嬢さん、結構すごい格好になってるよ。
とりあえず自分の部屋に戻って、シャワーを浴びて着替えておいで。
君はきっと遠坂に聞きたいことがあるんだろうけど、
アイツはちょっと野暮用でここにはいないから代わりに俺が聞くよ。
それに・・・。」
瀬戸口はここで言葉を切って、にかっと微笑みかける。
「腹、減っただろ?
今、午後の3時。
ちょうど午後のティータイムの時間だよ。
俺の部屋に美味しいケーキがあるからおいで。
一緒にお茶にしよう♪」
瀬戸口の笑顔を見て、少女は初めて自分が空腹であることに気づいた。
(なんだ・・・ちゃんと良い人がいるじゃない・・・。)
味方が増えたのを感じた少女は、先ほどの涙とは別の涙を目に浮かべながら、
その笑顔に答えるように大きく頷いた。
少女は自室でシャワーを浴び、着替えた。
“芝村舞としてなら部屋を出ても良い”ということになっていたはずなので、
服は予備の制服にした。
髪はもちろんポニーテールだが・・・それでもやっぱり首の跡は隠したい。
なので少々格好悪くなるがバンダナを巻くことにした。
髪も服もちゃんと鏡を見て整えたのだが、しょぼくれた顔だけはどうにもする気が起こらなかった。
自室に入る前に教えられた瀬戸口の部屋の前で止まり、扉を叩く。
すると、
「どうぞ〜♪」
部屋の主の明るい声が聞こえてきた。
扉を開けるとまず、甘い香りが鼻腔をくすぐってきた。
少女が部屋に目を向けると、瀬戸口が椅子に腰掛けてこちらを手招きする。
テーブルにはケーキや紅茶、サンドウィッチが綺麗に盛り付けられ並んでいる。
少女はそれらの姿を認識すると、吸い寄せられるようにテーブル歩み寄る。
テーブルの側にやってくると瀬戸口は立ち上がり、
「席へどうぞ、お嬢さん。」
彼の向かいの席の椅子を引き、仰々しくお辞儀をした。
彼なりに盛り上げようとしているのだろう。
少女は芝村舞の仏頂面で、
「ありがとう。・・・いや、違う。すまないな・・・。」
と言った。
それを受けて瀬戸口は困ったように笑う。
「いいよ、アイツの前以外でわざわざそんな喋り方しなくても。」
しかし、
「いや。私はここで芝村舞になるのが仕事だから。
遠坂さんも芝村舞の口調じゃないと話をしてくれないし。」
と、真面目に返す。
そこで瀬戸口はさらに困ったように唸る。
「う〜ん・・・そこまで徹底しなくてもいい気がするけどな・・・。
遠坂は遠坂で融通が利かないところがあるし。
まあいいや。
じゃあ、せめて俺と話をする時だけは普通の口調で行こうよ。
どうかな?」
「・・・遠坂さんには言わない・・・?」
「言わない言わない。」
「わかった。じゃあ、そうする。」
ここで少女は普段の少女に戻り、少しだけ微笑んだ。
瀬戸口はそれを見て満足そうに笑う。
「よし♪女の子は笑顔が1番!
とりあえず、腹も減ってるだろうから、食べようか。」
「うん、いただきます。」
少女は習慣なのか、丁寧に手を合せてからサンドウィッチに手を伸ばした。
よほどお腹が空いていたのか。
かなりのスピードで食べ進める。
瀬戸口はそんな様子を紅茶を啜りながら穏やかに見守っていた。
「ふぅ・・・ごちそう様でした。」
気が済むまで食べ進めた少女はきちんと手を合せて、頭を下げた。
見ればテーブルの上の皿は全て空だ。
「お粗末様でした。」
瀬戸口は少女に合せて頭を下げた後、
「・・・といっても、俺が作ったわけじゃないけどね。」
と、一言付け加えた。
「あ、でも、わざわざ私の分まで準備してくれたんですよね?
ありがとうございます。」
テーブルの上の料理。
それは明らかに1人用ではなかった。
「いやいや。喜んでいただけで嬉しいよ。
それより・・・どう?ちょっとは元気になったかな?」
瀬戸口は少女からの礼の言葉を受けると、
今度は少女の様子を心配そうに窺う。
その問いを聞いて、少女の顔が曇る。
「はい・・・お腹が空いてた分のは。
でも・・・昨日の夜のこと、今思い出してもショックです。」
「そっか・・・。そうだよな。」
少女の答えを聞いて、瀬戸口は頷き、そして問い返す。
「なら、もう逃げ出したい?」
「えっ・・・そ、それは・・・。」
その問いに少女は考え込み、下を向いて押し黙る。
「別に逃げたいって言う子はたくさんいたよ。
脱走を企てた子もいた。
だから、君が逃げたいって言っても俺は軽蔑しないよ。」
瀬戸口は少女の発言を促すためにそう付け加えた。
しかし少女は、
「・・・いいえ、逃げません。」
顔を上げ、瀬戸口の目を睨みながらそうきっぱりと言った。
「何で?ひどい目に遭ったのにそこから逃げ出そうとは思わないの?
何か・・・理由あり?」
「・・・はい。」
「そっか・・・。」
瀬戸口はここで発言を止め、残りの紅茶を啜る。
少女はまだ瀬戸口の言葉が続くのかと待っているが・・・。
「・・・うん。紅茶がうまい。」
と言うだけだった。
不審に思った少女が尋ね返す。
「聞かないんですか・・・理由。」
すると瀬戸口は、カップを持つ手とは逆の手をひらひらさせると、
「あ、うん、いいのいいの。
ここから出て行かないのかどうか確かめたかっただけだから。
まだいてくれるって聞いて、安心した。
結構大変なんだよね、芝村の姫さんのそっくりさんを見つけるの。」
と言って、また紅茶を一口飲んだ。
その言動を見て、少女は驚いた。
てっきり、何か自分を励ますようなことを言ってくるものだと思ったのに・・・。
もしくは自分がここに来た理由を追求してくるものかと思った。
それなのに、なんだかあっさりし過ぎていないか・・・?
そのことに関してどう聞けばいいのか浮かばなかったので、
少女は芝村舞になる勉強を始めてから気になっていたことを瀬戸口に訊ねた。
「あの・・・、前にも私と同じ、“芝村舞”になるために来た人がいたんですよね?」
「うん。少なくとも30は行ったかな・・・?50は越えてないと思う。」
瀬戸口は紅茶を飲んでいるときと変わらない様子で返す。
(そんなに・・・!?)
少女はその数に驚きを隠せない。
「それで・・・その人達は今どうしてるんです?」
「ん〜、そうだねぇ。
無事に逃げた子も何人かいるけど・・・。
大体は流れている噂通りだよ、うん。」
流れている噂。
この国は魔王が治められている。
魔王は城で獲物に飢えており、
それを鎮めるために歳若い少女を生け贄に差し出さねばならない。
うまくなだめられれば巨万の富が。
怒りを買えば惨たらしい死が与えられる。
いずれにしても結果は同じ。
2度と城からは生きて出られない。
この噂と瀬戸口の証言通りなら、少なくて30弱、多くて50人近くが自分と同じく生け贄になっている。
そして新たな生け贄が必要なければ自分は呼ばれなかったはず。
だけど自分はここにいる。
だったら、今までの生け贄はどこに行った?
そこまで考えて少女の背中に冷たいものが走る。
「そんな、12年も前に死んだ人の身代わりのために人を集めてるなんて・・・。」
「狂ってる。
何十回もその言葉を聞いたよ。」
瀬戸口は少女の口から次に出てくるかもしれない言葉を継いだ。
そして、言葉を続ける。
「だが、そんな狂人がいなきゃこの国は・・・いや、世界は平和にならなかった。
悲劇に狂って果ててもよかったのにアイツはそうせずに幻獣どもと戦い続けた。
今も世界をまとめるために薄汚い悪徳政治家と戦ってる。
だから誰にもアイツをとやかく言う資格はないよ。
俺はもちろん、遠坂にも誰にも・・・。
ましてや・・・、」
ここで1度言葉を区切って、続ける。
「戦時中の地獄のような光景を知らないで平和に生きている君達にはね。」
そしてにやりと笑う。
少女はそんな瀬戸口の顔を見て、恐怖から別の何かに心が切り替わり始める。
「じゃあ何?生け贄が差し出されるのは当たり前ってこと?」
「差し出されるってのは人聞きが悪いな。
その見返りで君は、多額の金を貰っているんだろう?」
そう。
それを得るのが少女の目的。
「・・・そうだよ。
それを手に入れるために、私はここに来た・・・。」
だから目的をことを言われると、少し困ってしまう。
「なら、文句は言えないな。」
「うん、わかってる・・・。」
瀬戸口の言うとおりだ。
でも、なんだか腑に落ちない。
それはなんだろう?
少女は他の気になっていたことについて聞き出す。
「じゃあ、何でここに来るときに仕事の説明をしてくれなかったの?
芝村舞になるって。」
その質問も瀬戸口は全く態度を変えることなく答える。
「“芝村舞”のクローンは、どういうわけか作ることができない。
だからアイツの心を満たすには“芝村舞”そっくりの人間を見つけ出さなければならない。
しかも、なるべく彼女と同じ年頃の。
これがなかなか見つけるのが大変でねぇ。
詳しいことを言って逃げられるわけにもいかないし。
例の噂が流れているせいで、
見つけてもすんなりとここまで来てくれるっていうことも無くなってね。
そういう意味では、君は話が早くて助かるって、遠坂は言ってたよ。」
それはわかった。
それは納得がいく。
だが、少女が瀬戸口に聞きたかったこととはちょっとだけピントがずれる。
「遠坂さんはここに来る前に、
“貴女の仕事は芝村厚志の相手になること”って言ってた。
だから、私が聞きたいのはそういうことじゃなくて・・・。」
少女は言いづらそうに口ごもる。
何だ?と、瀬戸口は眉を寄せるが、すぐにその理由がわかった。
「ああ、その“相手になる”っていう意味を具体的に言って欲しかったってわけね。
確かに不十分な言い方だけど、気づける子はそれでも気づくから。
それにね・・・、」
この時の瀬戸口の顔が、少女には悪魔のように見えたという。
「たまにね、必要なんだよ。
まったくの経験の無い娘が。
厚志が飽きないように、ね・・・。
だからやっぱり具体的には言えないな。」
この言葉を聞いて、少女は愕然として肩を落とした。
どうしてこんな人のことを何とも思っていないようなことができるのだろう?
どうしてさっきまで親しげに笑っていた人がこんなひどいことを平気な顔で言えるのだろう?
そう考えているうちに、少女の我慢の限界が来た。
「何それ、冗談じゃない!!」
少女はテーブルを両手で叩いて勢いよく立ち上がった。
「おおっ!」
流石に瀬戸口も少しは驚いたようで、軽く目を見張る。
「さっきから聞いてりゃ何よ、その勝手な理屈は!
確かに私の歳くらいだと戦争のこと全然わからないから平和ボケしてるように見えるんだろうけど、
だからって、そっちこそ何様よ!
何事もやっていいことと悪いことがあるとは思わないわけ!?」
少女は瀬戸口の話を聞いていくうちに溜まっていった感情を相手にぶつけた。
確かに少女にはここで文句を言う権利がある。
魔王の城へ出向くことを決意したのは本人だとはいえ、
事前に与えられるべき情報があまりにも少なすぎた。
そして、実際に彼女に起きた被害が被害である。
多額の金を貰っているとはいえ、だから“はいそうですか”で気がすんなり治まるわけではない。
(へぇ・・・言うねぇ。)
瀬戸口は少女の怒鳴り声を聞いて、楽しそうに笑みを浮かべる。
「あらら。
じゃあ、何か?
君はやっぱり仕事を放棄して逃げ出すって?」
そしてからかうように訊ねた。
「行かないわよ!
仕事はきちんとやってやる!
私にはここでやるべきことがあるんだから!
でも、覚えときなさい!
魔王もあんたらも、いつか絶対にぎゃふんと言わせてやる!!」
そしてテーブルに背を向けて扉へと歩き始めた。
瀬戸口はてっきり、“付き合ってられないわ!帰る!!”とでも言うかと思った。
ならば自分は力ずくでも少女を止めなければならない。
しかし、まったく逆に“行かない!”と言ってきた。
しかも自分はおろか、魔王すらも“ぎゃふん”と言わせてやるとまで・・・。
瀬戸口が見てきた生け贄の数は、少女に教えた数より実際には少しだけ多いのだが、
それでもここまで威勢がいいのは目の前にいる少女だけだ。
「へぇ・・・ずいぶん面白いことを言うねぇ。
“芝村舞”ちゃん?」
瀬戸口はこの事態が楽しくて仕方がない。
少女をおちょくる様に言った。
すると少女は歩を止め、髪を縛っていたゴムを解く。
染めたことなど無い純粋に黒い髪が肩に落ちる。
そして癖を取るように2、3度頭を振ってから瀬戸口を睨みつけた。
「仕事以外でその名前を呼ばないで。
私の名前は斉藤明日花。
これからはその名前で呼ばないと返事なんかしないから!」
そして少女は―明日花は魔王の城に来て初めて己の名を名乗った。
「ふーん、アスカ・・・ねぇ。
どんな字で書くの?」
「“明日”に“花”よ。」
「了解、“斉藤明日花”ちゃんね。
しっかりと覚えておくよ。
じゃ、がんばって俺達にぎゃふんと言わせてね。
明日花ちゃん♪」
瀬戸口は明日花の名前を胸に刻み込むように言うと、
明るい笑顔で手を振って見送る。
明日花はそんな瀬戸口を睨みつけると、再び歩き出し、扉を開けた。
そして音を立てて閉める。
「フフッ・・・アッハッハッハッハ!!」
明日花が扉を閉めた途端、瀬戸口は大きな声で笑い出した。
腹の底から声が出るほどの笑いだ。
テーブルに手を叩きながらしばらく笑い転げる。
やがて笑いが収まり、苦しげに呼吸をしながらも瀬戸口は立ち上がり、
寝室の奥にあった扉の鍵穴に鍵を入れ、回して開けた。
そこには1人の少女が目を閉じて大きめ椅子に腰掛けている。
瀬戸口は少女の手を取り、そこに唇を落とした。
そして、低い声で囁く。
「・・・出来るもんならな。」
囁くと、瀬戸口は少女の手を自身の頬へと導き、
うっとりと瞳を閉じた。