君への贈り物 〜 a maiden of beyond the sea 〜




 身を切るような冬の日。
その日は、曇っていて、空は今にも雪が降ってきそうな灰色をしている。
寺の境内にある墓地に、一人の少年がやってきた。
少年は白い百合の花束を大切そうに両手で抱えている。
少年は迷わず目的の墓石の前にたどり着くと、先日少しだけ降って墓石に張り付いてしまった雪を払う。
雪を払うと、墓石に刻まれた文字が明らかになった。
その墓は、
「・・・よお、壬生屋。また来てやったぞ。」
壬生屋未央。
少年のクラスメイトにして戦友の墓だった。
少年は壬生屋家の墓石をしばらく眺めると、その場に跪き花束を捧げる。
そして黙祷。
手を合わせて目を閉じていると、
「失礼ですが、どなたかな?」
不意に背後から声をかけられた。
「うわっ!」
少年は驚き、声を上げる。
まさかこんな天気が悪くて寒い日に、自分以外の人間が墓参りに来るとは思っていなかったし、
案の定、境内にやってきたときには誰の姿も無かった。
だから心臓が飛び出そうなくらい驚いた。
自分を驚かせた声の主の正体を確かめるために振り向くと、
そこには和服姿の初老の男が立っている。
「ああ、すまないね。こんな日にわざわざ娘に会いに来てくれるとは、一体誰かと思ってね。」
「娘?・・・ってことは、壬生屋の?」
「うむ。いかにもそこに眠っているのは私の娘、壬生屋未央だ。君は?」
「あ、すみません。俺の名前は瀬戸口隆之。壬生屋・・・さんのクラスメイトです。」
「そうか、未央の!・・・そうかそうか・・・。娘が世話になったな。」
少年――瀬戸口の正体を知ると、壬生屋の父は目を見張って驚き、
それからとても嬉しそうに微笑む。
壬生屋の父の嬉しそうな顔を見て、瀬戸口は照れて右人差し指で頬を掻く。
「いえ。俺は何も。」
「いやいや、そんなことはない。君も知っていると思うが娘は頑固者でな。
 前の部隊ではなかなか友達が作れなかったようなのだよ。
 だから、こうして未だに来てくれる友達がいるのは、親としてはとても嬉しい。
 どうだろう?君達の部隊にいた頃の未央のことについて聞きたいのだが、よろしいかな?」
「いいですよ。俺で良ければ。」
と言って快諾すると、瀬戸口は立ち上がり壬生屋の父に向かい合った。

 この寺の境内、本堂前の売店の近くはブランコなどの遊具がいくつか置いてあり、
ちょっとした公園になっていた。
売店の横にある自販機から壬生屋の父が、缶を二つ持ち、
瀬戸口が腰掛けているベンチへやってきた。
「待たせたね。コーヒーでいいかい?」
「はい。どうもありがとうございます、いただきます。」
壬生屋の父は瀬戸口に缶コーヒーを渡すと、瀬戸口の隣りに座り、
日本茶の缶を開け、一口啜った。
「あの子はな、“学兵は寮で暮らす義務があるのです”と言って、なかなか家には帰ってこなかった。
 すぐ近所だというのにね。まったく、親の気も知らずに・・・。」
「勿体無いですよね、俺のとこは県外だから休みがあってもなかなか帰れないっていうのに。」
瀬戸口は缶から口を離すと、壬生屋の父に微笑みかけ、話し始める。
「えっと、壬生屋、・・・さんが、」
「普段呼んでいた通りでいいよ。クラスメイトだったのだから、変に気を遣う必要はない。」
壬生屋の父は瀬戸口の気遣いを微笑ましく思い、つい笑みがこぼれた。
「あはは・・・すみません。
 壬生屋がうちの隊にやってきたのは、去年の盆の後でしたね。
 パイロットの補充、ということで入ってきたんですけど、
 いきなり胴着姿だからビックリしました。
 それでうちのクラスのバカが“巫女さんだー!コスプレ女だー!”なんて叫んだら、
 “失礼な!これはコスプレなどではありません!”って叫び返して。
 どエライ奴が入ってきたなと思いました。」
「はっはっは!そうだな、赤い袴だからそう思っても仕方がないな。
 私も何度も制服を着た方がいいのではと、うながした事があるのだが、
 “わたくしは武家の生まれなのです。ですからこれがわたくしの戦闘服なのです。”
 と言って聞かなくてな。
 どうなることやらと思っていたら、ある日、急に家に置きっぱなしだった制服を取りに来た。
 あれは一体、どんな心境の変化があったのかな?」
「あ〜、あれ!あれはですね、
 壬生屋が制服を着ないのを黙っていられなかったうちの隊の女性陣・・・特に整備班長が、
 “シミュレーター訓練で、速水君”・・・ああ、うちの隊の奴です、
 “速水君とどっちの方が撃墜数が上が勝負しなさい!
  罰として負けた方は今後、女子用の制服の着用を義務付ける!”
 って言い出して。
 で、壬生屋は壬生屋で、“面白い・・・。受けてたちましょう!”って。」
「はははは・・・!災難だな、その速水君とやらは。
 それで?未央が制服を着た、ということは速水君が勝ったのだよな?」
「はい、・・・いちおうは。」
「いちおう?」
「先に速水が挑戦したんですけど、あいつ、パイロットなのにあんまりうまくないから・・・。
 1回15分のシミュレートで撃墜数は小型幻獣が5・・・それでも、
 あいつにしちゃあ、上出来でした。
 その時はまだ壬生屋の戦いっぷりを見たことなかったんですが、
 こりゃあ、壬生屋の勝ちなんだろうなと思ったら、残弾数を表す数値に誤りがあって、
 本当は銃に弾なんて入っていないのに、充填完了ってなってたんですよ。
 スタート直後になってようやく気がついて、壬生屋は仕切り直しを要求したんですが、
 “貴女、もし敵の真っ只中でそんな状況になったらどうするの?
  弾切れなんですぅ〜、って言って敵が手を引いてくれるとでも?”
 って整備班長が言うから、なんと、素手で戦い始めたんですね。
 大太刀も装備してない完全な丸腰だったから、
 てっきり、敵に突っ込んでって帰り討ちにあってゲームオーバー、
 皆そう考えてたんですけど、何度も逃げ回っては隙を突いて、
 なんとか中型を一体撃破したところで時間切れ。
 戦果としては中型を倒した壬生屋の方が上なので、
 “わたくしの勝ちですね”って、本人は言ったんですが、
 “いいえ。今回はどちらの方が撃破数が上か、の勝負のはず・・・。
  よって、勝者は速水厚志!”
 ってことで、壬生屋が負けたから、罰ゲームは壬生屋に、ってことになったんです。」
「なるほど!それでは制服を着ざる負えないな。
 あの子の性格からして、その罰ゲームとやらを撤回したりはしないだろうし。」
「ははは!後になって考えてみたら、壬生屋、はめられてたんだと思いますよ。
 整備側なら計器への細工なんて簡単だし。
 速水に白羽の矢が立ったのは万が一壬生屋が勝ったときの保険でしょうね。
 壬生屋以外のパイロットは皆男だったし。
 もし女装するとしたら、速水以外は見られたもんじゃない。」
「それはそれは。知らなかったとはいえ、
 未央は敵に回すべき相手を間違えたということだな。」
「ですね。俺らの隊で好んで整備班長を敵に回す人はいませんよ。
 なのに壬生屋は鈍いのか、何度も整備班長に食ってかかっては何度も言い負かされてましたよ。
 食ってかかると言えば、俺達パイロットとも色々ありましたね。」
「何!その時だけではなく、何度も?他の方々にも?
 それはうちの娘がご迷惑を・・・。」
「いえ、別に大したことじゃあ・・・。」
「いやいや、あの子は本当に融通が利かない子で・・・。
 ちょっと、その時の様子を詳しく教えてくれ!」
冬の寒空の下、最初は温かかったコーヒーの缶はすっかり冷えてしまった。
しかし、そんなことは気にならないくらい二人は話に夢中になっていた。

 話は壬生屋が異動してきた年の文化祭での出来事、翌年の春の球技大会、
夏に行ったキャンプ、そしてついこの間やるはずだった文化祭での人形劇の練習風景まで進んだ。
「・・・で、せっかくの休みなのに、“皆で練習です”って。
 前日深夜に戦闘があったってときもあったのに、お構い無しなんですよ。」
「それは済まなかったな。でも、あの子にとって、皆と一緒に何かやるなんてこと、
 初めてだったのかもしれない。だから許してやってくれんかね?」
「流石に今更どうこう言う気は無いですよ。
 あんなに稽古ばっかりさせられたのも、今となっては良い思い出ですし。
 ・・・でも、やっと迎えた本番の日に出撃の呼び出し。
 そして、壬生屋はそのまま・・・。
 ・・・せめて、出撃が本番の後だったら。
 あいつ、あんなに練習したのに・・・。」
「・・・・。そうか・・・。」
直前まで楽しそうに話していたのに、
急に辺りの寒さを思い出したように二人は塞ぎ込んでしまった。
何とも、寂しい空気が流れる。
その静寂を先に破ったのは、壬生屋の父だった。
「・・・なあ。あの子の最期はどんな様子だった?
 私の元に戻ってきた時、あの子は白無垢を着せられ、死に化粧を施された後だった。
 私が見たあの子の最後の姿は、去年の盆にうちに帰ってきたときなんだ。
 たった一日だけ帰ってきて、“では、行って参ります。お体に気をつけて。”と言って、
 君達の部隊の寮へ帰っていった。
 ・・・私はあの子が徴兵されてからずっと、どんな想いをしてきたのか知らない。
 元々うちが道場をやっていたせいか、稽古と戦争で戦うことしか考えていないようだった。
 本当はもっと、色々なものを見て笑っていていい歳なのに・・・。
 だから、もしかしたら死の直前までも幻獣と戦うことばかりを思っていたのではないかと、
 悲しくなるのだ。
 瀬戸口君、あの子は最期はどんな顔をしていたんだい?
 せめて・・・せめて最期だけは、何にも縛られずに笑っていたのだろうか?
 この老いぼれに教えてくれないか?」
「・・・・っ。」
壬生屋の父の必死な様子に、瀬戸口は思わず顔を反らしてしまう。
「・・・あっ、済まない。ずっと一緒にいた君の方が辛いだろうに・・・。
 本当に済まない、私が先ほど言ったことは忘れてくれ。」
深く頭を下げ、壬生屋の父は心から謝罪した。
「いえ、大丈夫、頭を上げてください。
 俺なら大丈夫。話しますよ、あいつの最期を。」
瀬戸口は慌てて壬生屋の父の頭を上げさせる。
壬生屋の最期のことを思い出し、辛くなる心を抑えて、どうにか微笑みを浮かべる。
壬生屋の父は頭を上げ、そんな瀬戸口の表情を見て、
「・・・!済まない、ありがとうありがとう!」
今度は心から礼を言う。
瀬戸口はそんな壬生屋の父の様子に、少し困った表情を浮かべる。
そして、間を置いて気持ちを静めて、深呼吸してから話し始めた。

「あいつはね、死ぬ寸前まで、全力で生きていました。
 俺はあいつが戦線を離脱してから部隊全員が撤退するまで戦っていたから、
 あいつに最期に会ったのは救護ヘリの中だったので知らなかったのですが、
 運ばれてる間、腹に穴が開いて苦しいだろうに、ずっと憎まれ口を叩いてたって、
 あいつを救護ヘリまで連れて行った奴らが言ってました。
 呼吸するのが辛くて、喉が乾くのか“水を・・・。”
 って言ったから俺は水を渡そうとしたんだけど、“飲ませたら死ぬぞ”って、
 医者に止められました。
 ・・・でも、水くらい飲ませてやりたかったな。
 そしてしばらくしたら、またさらに呼吸が苦しそうになって。
 もう助からないとわかったのか、自分で酸素マスクを引き剥がして俺の方を向きました。
 看護婦さんは止めようとしたんですが、医者は今度は止めませんでした。
 そして・・・そして俺の方を見て、最期に・・・。」

 瀬戸口はここまで一気に言うと、言葉に詰まる。
「最期に・・・何て言ったのだね?」
目を潤ませる瀬戸口に、壬生屋の父は静かに先を促した。
「・・・声はもう、出てなかったから、俺の勘違いなのかもしれない。
 でも、俺には、確かに“好きでした”って、言っているのがわかった。
 俺の手を握って、間違いなく俺の方を向いて・・・。」
「未央が、君の事を・・・?」
「はい・・・。
 俺の自惚れだなんて思わないでください。
 それが間違いなく、あいつの最期の言葉。
 そしてそれを言った後、笑って目を閉じました。
 それから・・・、それからあいつが目を開けることはありませんでした。
 俺たちが何度呼んでも、どんなに泣いても、あいつは帰ってきませんでした。」
やっとの想いでそこまで言うと、瀬戸口は下を向いてしまう。
「そうか、あの子は最期には笑っていたか・・・。」
壬生屋の父は、あえて瀬戸口のほうを向かずに前を見たままでいる。
「大丈夫、自惚れだなんて思わない。
 思うわけがないじゃないか、あの子が最期に、やっとの思いで君に伝えたことなのだから。
 ・・・君は、未央のことが好きだったのかい?」
「・・・わからない。
 ただ、あいつの最期の顔は、俺が付き合ってきたどんな女より綺麗だった・・・。」
「そうか・・・。」
「はい・・・。」
二人は、お互いを見ずにそのまま黙り込んだ。
互いがそれぞれの思いにふける。

 しばらくして、壬生屋の父がベンチから腰を浮かし、立ち上がった。
そのあまりに突然な動作に、瀬戸口は思わず顔を上げて壬生屋の父の方を見る。
瀬戸口を見下ろす壬生屋の父は、優しく微笑んで言った。
「瀬戸口君。君にぜひ受け取ってほしいものがある。
 私は家にそれを取りに戻るから、しばらくここで待っていてくれないか?」
「・・・へ?ああ、いいですよ。
 今日はこれから何の用事もないですから。」
「ありがとう。すぐに戻る。」
そう言うと壬生屋の父は石段を駆け下りていった。
老いぼれ、と本人は言ったがとてもそんな風には思えない。
――数十分後。
壬生屋の父は呼吸を荒げ、額に汗を滲ませて戻ってきた。
手には、何か紙が収まっている。
「・・・これ。これは君宛だ、あの子から。」
「えっ?」
無理矢理に呼吸を落ち着けた壬生屋の父から差し出されたもの。
それは手紙だった。
封筒は薄いピンク色で、白とレモン色の花の絵が描かれている。
可愛らしくもあり、女性らしい。
そんな印象を受ける封筒だった。
「遺品として帰ってきたあの子の風呂敷包みの中に入っていた。
 君宛の手紙なんだ、あの子からの。
 だから、どうか読んでやってくれ・・・!
 内容が気に食わないのならその場で破いてくれてかまわん!」
今まで以上に必死な様子に、瀬戸口は思わず後ずさりしてしまう。
「ええっ!?や、破くなんてそんなこと・・・。
 俺が読んでもいいんですか?せっかくの形見なんでしょう?」
「いいや、いいや!これは君が読まなければ意味がないんだ!
 読んでくれ、どうか読んでくれ!」
と言いながら、壬生屋の父は瀬戸口の手に手紙を握らせる。
「大丈夫、もちろん読みますから!
 では・・・失礼します。」
手紙を握らされた瀬戸口はそう言って、壬生屋の父を安心させてから封筒を開けた。
封は切られた跡がある。
おそらく、壬生屋の父が先に目を通していたのだろう。
瀬戸口は中に収まっていた便箋を開き、数行目を通した。
そして、驚き目を見張る。

 『  
    瀬戸口 隆之君へ

   突然のお手紙失礼します。
  おそらく、貴方はとても驚いているでしょう。
  でもわたくし、ずっと貴方に伝えたかった事があるので、筆を取らせて頂きました。
  正直に言います。
  わたくし壬生屋未央は、貴方のことをお慕い申し上げます。
  どうしようもなく好きなのです。
  いつからなのかはわからないのですけれど、
  気がついたら貴方のことばかり目が追っていました。
  貴方は怒ったり、泣いたり、自分の気持ちを素直に出せて、
  そこがとても魅力的だと思います。
  特に貴方の笑った顔。
  それがわたくしは他のどんな顔よりも大好きなのです。
  ・・・他の婦女子を見ているだらしのない顔はあまり好きではありませんが。

   このようなお手紙を渡されて、貴方はとても戸惑っていると思います。
  本当にごめんなさい。
  わたくしのような未熟者からこのようなことを伝えられても、
  きっと困るだけですよね?
  でも、それでも良いというのなら、どうか貴方のお気持ちを聞かせてください。
  例えそれがわたくしの望まないようなことでも必ず受け止めますから、
  どうか貴方の嘘偽りのない返事を聞かせてください。
  では、待っています。

   最後にもう一度お伝えします。
  
   壬生屋未央は、瀬戸口隆之をお慕いしています。

                   壬生屋 未央より    
                                       』

「なんで・・・。
 ・・・あいつ、いつの間にこんな・・・?」
読んでいるうちに、何かが込み上げてきた。
締め付けられるように苦しくなった喉から、なんとか声を振り絞って隣りに座る男に尋ねた。
「・・・去年の盆。
 あの子が家に帰ってきたときだ。
 部屋に閉じこもってどうかしたのかと思って襖を開けたら、
 顔を赤らめたり、しかめ面をしたりしながら必死になって何かを書いていた。
 襖を開けたことに気づいていなかったから、何をしているのかと声をかけたのだが、
 そうしたら、驚いて飛び上がりおった。
 そして“勝手に襖を開けないでください!出て行って!!”と怒られてしまったよ。
 ・・・寮では書きづらかったのだろうな。
 それから何時間も部屋から出てこなかったよ。
 せっかく帰ってきたというのにな。」
去年の盆。
壬生屋が亡くなったのはその年の秋。
それまでこの手紙は風呂敷包みの中で眠っていた。
そして、宛名の人物の元へと渡される日を待っていたのだろう。
――他ならぬ、送り主の手で。
しかし、それは叶わず時が経ち、今ごろになって届けられた。
渡した者は送り主とは別の者。
それの送り主は、この手紙を書いた人物はもう、この世にはいない。
待っているであろう返事は、もう、出せない。
「・・・んで。
 なんで生きてるときに言ってくれなかったんだよ、この馬鹿野郎ぉ!!」
視界がぼやけてきて、心から思った言葉が叫びとなって現れた。
気がつくと、瀬戸口は己の目から涙を流していた。
地面に涙の雫が数滴落ちる。
そのまま手紙を抱きしめるように両手で握り締め、
前に突っ伏すように身を折って、泣いた。
泣きたくなくても涙は止め処なく流れてくるし、
抑えようにも、喉からうめき声が出てくる。
何より、この空しさと切なさを感じる心を静めることができなかった。
隣りに座る男は泣くことしか出来ない瀬戸口の肩を抱き寄せ、もう片方の手で背中を擦ってやった。
まるで彼が彼の娘が幼い頃してあげたように。
・・・そうすることしか、彼には出来なかった。

 「すみません・・・。もう、大丈夫です。」
どのくらいそうしていただろうか?
曇っていても昼の明るさをいちおうは持っていた空が、
果てしなく暗い色になっている。
戦争により街灯が灯せないこの町は、間もなく、暗闇で覆われるだろう。
壬生屋の父は瀬戸口から体を離し、
「そうか・・・。すまなかったな。
 君に辛い思いをさせてしまった。」
と、深く謝罪した。
「いえ、いいんです。
 あいつからの手紙、届けてくれてありがとうございます。」
と言って、瀬戸口はぎこちなく微笑んだ。
泣きはらして、目は赤くなってしまっている。
壬生屋の父はそんな表情の瀬戸口に、優しく微笑みかける。
「いいや。礼を言わなければならないのは私の方だ。
 ・・・あの子のために泣いてくれてありがとう。
 あの子と一緒に戦ってくれてありがとう。
 あの子に・・・あの子に愛するということを教えてくれてありがとう・・・。」
そして、天を仰ぎ、数度目を瞬いた。
そのままの姿勢でしばらく目を閉じ、また開き、瀬戸口の方を向いた。
その目は何かを決意していた。
「瀬戸口君・・・。
 君にもう一つ頼みたい事がある。」
「た、頼みたい・・・事?」
瀬戸口を見つめるその瞳は真剣で、軽くあしらうことなど許してくれそうはない。
「これを・・・。」
瀬戸口の問いに答えず、壬生屋の父は小さな木箱を渡した。
「これは?」
「開けてみればわかる。」
そう言われて瀬戸口は木箱を開けた。
そこには絹で織られた布で包まれていた何かがあった。
その布を開けると、そこから・・・。
「・・・!こ、これ・・・!」
ずっと。
ほぼ毎日彼が見ていたそれが、そこにはあった。
もう、二度と見る事が出来ないと思っていたそれが、その中に入っていた。
「そう。
 あの子の・・・、未央の遺髪だ。」
それは長く黒い、美しい髪だった。
あの頃見たのと同じ長さを損なわぬよう、何度も折り返され束になってそこに収まっていた。
突然の再会に、瀬戸口は言葉が出ない。
壬生屋の父はそんな瀬戸口の様子に目を留めながら、
真剣な声で言う。
「あの子が事前に書いていた遺書に、
 “わたくしが死んだら、わたくしの遺髪を、昔母と遊びに行った海に流してください。”
 とあった。
 その役目を君に頼みたい。この通りだ。」
そして、地面に頭を付け、土下座をした。
「えっ、ええっ!
 ちょっ、ちょっと待ってくださいよ!!」
そんな壬生屋の父の行動に驚いた瀬戸口はベンチから滑り降りて地面にしゃがみ、
壬生屋の父の肩を押し、頭を上げさせようとする。
しかし壬生屋の父はそれに逆らい、頭を地面に付け始めた。
「私は不治の病に冒されている。
 だからその海まではあまりに遠くて行けない。
 私ではあの子の願いを叶える事ができないのだ!
 それに、あの子に愛することを教えてくれた君に流してもらえるのであれば、
 あの子も幸せだ。
 頼む・・・。
 この死に損ないの老いぼれの人生で最後の願い、叶えてはくれぬだろうか・・・!」
「・・・なんだって?」
壬生屋の父はまだ初老。
しかし、妻に先立たれ、息子を戦争で亡くした。
その上、最後に残った最愛の娘も手の届かない所まで――。
彼はあまりに多くのものを無くし続けた。
そのことは、彼から生きる希望を奪うのと同時に、彼から生きる力を失わせていった。
道場主として健やかに暮らしていたのだが、
ぽっかり開いてしまった心の穴に忍び込むように病魔が入ってきた。
ただ、彼にとってはそれでも全然かまわなかった。
むしろありがたいとすら思う。
こんなに寂しい世界で生きていたいとは、もう思わない。
でも一つだけ。
一つだけ心残りがあったのだ。
壬生屋の父の境遇を聞いた瀬戸口の手は、彼の肩を押す力を失い、
パタリと落ちた。
すると壬生屋の父は顔を上げ、瀬戸口の目を射抜くような強い目で見つめた。
「・・・引き受けて、くれるね?」
「はい。俺で良ければ。」
その目に見つめられてはもう、断ることなど出来なかった。
「喜んで行かせて頂きます!」
そして壬生屋の父の手を取り、握手を交わした。
それに元より、瀬戸口に断る理由はなかったのだ。



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